「森首相ってどんな人?」「日本では政治家と官僚と、どっちが力が強いの?」−−どこの国からを問わず、来日する外国人と話していて、必ずと言っていいほど聞かれて、面白い議論になるのが、政治家と官僚の関係だ。日本の政府機関が招く外国人調査団、研修ツアーなどで日本事情を講演したり、セミナー形式の集中討議の講師をする機会がかなりある。そうした時には「日本の政治的リーダーシップ」の問題をできるだけわかりやすく、的確に伝えるように努めているつもりだが、いつも、もう少しうまい説明ができないものか、あれで十分わかってもらえただろうか、という思いが残ってしまう。それだけ、テーマそのものがデリケートで「言わく言いがたい」ものが付きまとうからだろう。言うまでもなく、自分が日本語できちんと説明できないことを外国語で説明できるわけがない。その意味で、自分の政治を見る眼、考える力を鍛える貴重な機会になっている。

 通産省の外郭団体に貿易研修センターという財団法人があり、毎年春と秋に世界各国の政府高官や学者、民間企業トップ、報道関係者らを一週間、日本に招いて「日本をよく知ってもらう」プログラムを実施している。八〇年代後半に欧米企業の中間管理職クラスを毎年百人近く招いて「日本的経営の良さ」を研修してもらうプログラムがあったが、九〇年代に入って、バブル経済の崩壊で日本的経営の問題点が露呈してくるなかで、産業界に限らず、もっと各界の指導層に広く日本の実情を知ってもらい、できれば日本を好きになってもらいたいという趣旨に衣替えして「リーダーシップ・プログラム」と名付けられている。

外国人は「日本の政治」に大きな関心

 参加者は九〇年秋の第一回が十五人、今年秋の第二十一回が九人で、累計で三百六人になる。国別ではアメリカが八十八人で最も多く、以下、カナダ二十五人、中国二十四人、イタリア十九人、ドイツ十五人、フランス十四人、イギリス十三人、オーストラリア十二人、タイ十一人、と続いて、参加国数はこれまで三十二カ国に及んでいる。職業別にみると、公務員が八十人でもっとも多く、学者が五十九人、民間企業経営者が五十一人、団体役員が四十七人、ジャーナリストが三十二人、政治家が十七人などとなっている。いずれも各国の日本大使館やジェトロ(日本貿易振興会)の出先事務所が推薦してくる人たちで、参加者のほとんどは過去に1、2回、日本に来たことがある程度で、日本について関心は高いが、それほど知日派でも、親日派でもないという人が大多数だという。

 私は、この人たちを相手にこの数年、毎回「日本の政治」について九十分の講義をしている。当初は参加者と食事しながら懇談する「ビジネス・ランチ」に出席するだけだったが、そのうちに日本経済についてのパネル討論に参加を求められ、回を重ねるうちに政治の講義を頼まれるようになってしまった。

 事務局によると、参加者の間で「経済についてはいくらでも情報が得られるが、日本の政治についての情報がない」「自分の国のマスコミでもほとんど報道されないので、ぜひ政治の解説を」という声が多いが、官僚や官僚OBは「われわれ役人が政治を論評するのは差し控えたい」との意向が強い。学者、評論家、政治部記者にしても、「英語でうまく説明できそうにない」と断られるケースが多いという。 

 政治は言葉、それもレトリック(修辞)がとりわけ重要だ。それを外国語に翻訳することのむずかしさを感じて敬遠するのだろう。たとえば日本の政治家が好んで使う表現に「さはさりながら」がある。論理的にはまるでつながらないことを、この表現で平気で都合良くつなげてしまう便利な言葉だ。その隠れた動機をどれだけうまく指摘できるか。また「桐一葉、落ちて天下の秋を知る」「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言った古典的な表現の意味するものや、昨日まで政敵だった者同士が一回、料亭で会食して「肝胆相照らす仲」に豹変する内情をどれだけうまく解説できるか。

 私は、もともと新聞記者としての振り出しが東京都政担当で、行政と地域住民、地元政治家のせめぎ合いを取材することが出発点だった。それ以来、国会担当として国会議員たちの生態を身近に観察し、警視庁担当で公務員、政治家の犯罪を追いかけ、国鉄民営化取材班のキャップとして運輸族の活動ぶりを調べて、文部省担当として文教族の実態を研究した。社会部記者時代は選挙のたびに連載企画を担当し、政治家の誕生と日常生活、選挙の興奮と落選の悲哀などをつぶさに見てきた。政治は学生時代から関心あるテーマで、勉強してきたつもりだけに、何とかなるだろうと引き受けた次第だ。

日本の政治家は「おみこし」型の世話役

 日本政治の実態を説明するのに、私は次のような構成にしている。

 まず第1に、日本の政治指導者の特質の解説。欧米の指導者は理念、理想を高く掲げて支持を訴えるが、日本では政治家の多くは常に腰を低くし、よろず相談に応じる世話役で、トラブルを回避するのに妥協精神に満ちていることが重要であり、周囲の人たちが安心して担ぎ上げられる「おみこし型」が理想とされている。首相がなぜ、どう選ばれるかが、そのいい素材になる。また日本の「政治的判断」とは、欧米のように「論理的に正しいから、妥当だから」ではなく、「今がいいタイミングかどうか」という時間的要素が最も重要で、反対する場合には「時期尚早」が最大の理由になることが大きな特徴であると説明している。

 第2に、政治家と官僚と産業人との政・官・財の「鉄の三角形」ともいうべき相互依存システムを紹介する。学校の教科書では立法府の議員が法律をつくることになっているが、実態は行政府の役人が法律のほとんどをつくっていること、それを補完する形で、政権党である自民党の族議員が活躍し、政府の審議会や業界団体を通して産業界の意向が政府の政策決定、法案づくりに反映している様子を説明している。

 そして第3に、政党の役割。九〇年代に入って、政党の分裂と合従連衡が激しいが、実態としては五五年の保守合同以来、保守系の支配は変わらず、国民の政党支持率の推移を見ても、特定の宗教政党である公明党が6%、社会主義革命を志向している社会党が6%、共産党が8%にとどまり、一貫して政治的には相当安定していることを解説する。

 この3本柱をベースに、そのつど日本人の政治意識、政治献金・政治資金の流れ、選挙制度の変化、内政と外交との関係など、さまざまなテーマで議論してきた。

 その中で、参加者が最も興味をもって、論議の焦点にしているのが官僚の役割だ。

官僚のプライドと悲哀

 日本では明治以来、近代国家をつくる原動力として国立大学が人材を養成し、最も成績優秀な学生たちが官僚になってきた。そのエリート登用システムは現在でもほとんど変わらない。キャリア(上級職)は新幹線並みのスピード出世で重要ポストを駆け上がり、ノンキャリ(中級職、一般職)は専門職として長く同じ部署でキャリアの補佐役を務める。キャリアの自慢は、法律を何本書いたかであり、民主制度の建前上、三権分立と言っても、実際には、行政が立法を包み込んでいる。

 大蔵、通産、文部など省庁を問わず、官僚と接していて痛感するのは、彼らが国家エリートとしての強烈なプライドを持っていることだ。法律と予算をバックに、業界を強力に指導できる。法律に基づかなくても日常的に「行政指導」する。そこに官僚の強力なリーダーシップが発揮されている。江戸時代の幕府政治以来の伝統で、政府が情報を独占して、国民には「知らしむからず、寄らしむべし」を原則としている。それだけに官僚は「無謬性」を自負して、決して過ちを認めようとしないし、謝らない。

 では官僚が万能か、というと必ずしもそうではない。官僚が新しい法律を作成しようとする場合、まず与党の族議員たちに「ご相談」する。もし政治家の賛同が得られなければ、普通は法案として国会に提出されず、凍結されてしまう。たとえ与党の賛成だけで提出しても、政府与党が強行採決しない限り、与野党対決法案として継続審議で棚上げされ、廃案に追い込まれてしまう。その意味で、官僚には常に政治家に対する警戒感と挫折感がある。官僚の出世ポストの最右翼である官房総務課長、官房長の仕事のほとんどは、政治家対策であり、国会対策だ。政治家をうまく操縦できることが官僚トップの事務次官になる試金石にもなっている。

 そこで官僚は、自分の手柄も「〇〇先生の優れた指導力のおかげ」と政治家に花を持たせ、基本的に表舞台に立つことのない裏方としての役割に徹しようとする。官僚は「全体の奉仕者」を任じて「行政の継続生」を強調するあまり、行政に自分の個性を打ち消そうとし、「顔が見えない」ことをむしろ美徳と考えている。自分の個性を消して「黒衣」に徹することに不満を持つ者が官庁を飛び出し、政界に打って出る。そうした官僚OBの政治家が、出身省庁の利益を代弁し、省庁の既得権益を守るために「族議員」として活動するわけだ。

 −−そんなメカニズムを説明していると、必ずと言っていいほど、質問が集中する。

 「一体、誰が官僚をチェックできるのか」「官僚が間違った場合、誰がどんな風に責任をとらせることができるのか」「政治家が、あの官僚は問題だ、と辞任させるようなことはあるのか」などなど。

 アメリカをはじめ外国では、大統領や知事、市長が選挙で代わると、役所の重要ポストに就いている高級官僚の大半が、ポリティカル・アポインティー(政治的任命)で代わるケースが多い。そこで日本のように首相や知事、市長が代わっても、官僚のトップのほとんどに変化のないのが奇異に映るらしい。

 また党官僚の支配するロシアや中国では、市場経済へ移行する過程で、官僚の汚職、利権あさりの横行が大きな問題になっており、日本の官僚の清廉さが称賛されたりする。

 ロシア人参加者は「ソビエト時代はKGBの監視が厳しく、汚職も限られたものだったが、今はその監視が取れたため、官僚たちが自分の縄張り、権益を主張して、収拾がつかなくなっている。レストラン一つ出店しようとしたら、20以上の役所、部課の許可を得なければならず、それぞれで賄賂を要求され、大変なコストがかかる、と市民の不満が高まっている」と認めている。中国では最近、大規模な汚職が次々に摘発されていて、中国共産党機関誌「人民日報」の推定では、九九年上半期だけで、約百四十四億ドル(一兆五千億円)もの国費が不正に流用されたとのこと。党中央幹部向けの参考書でも「公務員の倫理」を強調した本が百万部を超えるベストセラーになっているという。

 公務員は長い間、「滅私奉公」がタテマエとされてきたが、ロシアも中国も厳しい規制が緩むと、とたんに私利私欲が前面に出てきて、とめどなく「滅公奉私」へと流れていくことを示している。こうして官僚のあり方、「行政の継続性」が適切なのかどうかをめぐって、それぞれの国の事情と照らし合わせる形でいつも議論が弾んでいる。

 なお、この「リーダーシップ」プログラムでは修了後、全員に講義の評価表を提出してもらっている。5段階評価で、5が「エクセレント」(特に優れている)、4が「グッド」(良い)、3が「アベレジ」(まずまず)、2が「プア」(不出来)、1が「ベリー・バッド」(ひどい)という採点だ。その結果を事務局に見せてもらうと、今秋の私の成績は4・9(9人中8人が5、1人が4)で、講演者の中で最高点。今春のプログラムでの私の成績も4・7(9人中6人が5、3人が4)で、やはりトップだった。

 個別に参加者に聞いてみても、高得点を挙げた講師は概して講義内容の説明がわかりやすいだけでなく、質問を歓迎して、質疑応答を活発にして議論を進めている。逆に評価が低いのは、用意した原稿をひたすら棒読みしたり、スライドを見せるだけで、質問を受けようとしなかったり、質問されても、私の個人的な感想を言うべき場ではないから、と「官僚的答弁」で返答を避ける人たちだった。 私が身近に接した例からすると、優れた官僚ほど個性豊かで、いわゆる官僚臭さのない人、「官僚らしくない」人たちだ。彼らの多くは高い見識を持って、立場上語るべきことと、個人的見解として縦横に論じることのできる度量を持っている。それをぜひ、こうした国際交流の場で生かしてほしい、と願っている。