年末に痛ましいニュースが耳に入った。国際政治学者の猪口孝さんが東京文京区のマンションの自宅で娘と共に焼死した。猪口さんは妻の邦子さん(政治学者で参議院議員)との間に双子の娘が居て、その姉は障害者で、失火当時長女と猪口さんが自宅で留守番をし、妻の邦子さんと次女は外出中だったという。猪口さんは 2 年ほど前から体調を崩し、特に足が衰えて杖をついて外出するのもままならない状態だったはずだから、恐らく火災に気づいても障害者の娘と共に逃げることができずにそのまま焼け死んでしまったらしい。
猪口さんは1944年生まれ。新潟高校から東大法学部に進み、若くして「優れた政治学者」と注目され、多くの研究論文、著書を出版した。その猪口さんと私が初めて会ったのは、確か1992年ごろ。彼が渋谷区青山学院大学前の国連大学の副学長に公募に応じて就任した時。その意図を詳しく聞いた。彼の目的は、これまでの日本の政治学者がどうしても内向きで、海外との交流も少ないことに不満を持っており、「国連大学で、世界各国の主要大学の研究者たちと交流し、共同研究していく機会をできるだけたくさん持ちたい」ということだった。その役職上、世界各国で開催される国際学術学会への出席が増え、そうした縁で知り合った世界の学者や政治研究者たちと、政治体制、経済事情、国民の生活状況、宗教・文化の違いからくる異文化摩擦など幅広いテーマについて共同研究を進め、その成果を次々に論文や著作に発表した。その姿勢は終生変わらず、特に環太平洋地域の学者たちと一緒になって、各国の政治経済文化の進展状況を指標化する「アジアン・バロメーター」を作り、その実績を重ねてきた。
私が彼にインタビューをしてまとめた記事は、日経新聞が発行していた週間英字新聞の半ページを使って掲載した。その前に彼の自宅に電話すると、夫人が出て「夫の事を英字新聞で取り上げてくれるのは素晴らしく嬉しい。ぜひ大きく掲載してください」と喜んでいた。 その後、私は2002年秋から国際教養大学の中身作りに取り組み、2004年の開学と同時に日経をやめて秋田に移り住んだが、その大学運営が一段落した 2006年頃、猪口さんが新潟県立大学の学長に請われた。その時、彼はすぐに私に連絡をしてくれ、「同じ県立大学としてどうすればいいか、参考意見を聞かせてほしい」と言い、新潟県庁の幹部職員を同行して国際教養大学を訪ねてきた。私はその時、「県立大学とは言え、県庁の言いなりになるだけでは何の意味もない。特に公立大学法人として注目されるためには、学長がCEO(最高経営責任者)としてリーダーシップを発揮し、事務局も教務、学生募集、学生のキャリア開発、地域貢献などについて、職員の中で専門家を育てるように努力しないと決して成功しない」と強調した。猪口さんはそれに大きく頷き、「県庁の皆さんにはその点ぜひよろしくお願いします」と語っていた。
猪口さんが学長に就任して以来、学長便りをメールで発信しており、それを私も受け取って見ていたが、感心したのは、「新潟県立大学の在学生が意外なほど経済的に苦しいため、朝食を抜いて授業に出ていることに気づいた。そこで事務局と相談して、100円でちゃんと栄養バランスの取れた朝食メニューを用意して、学生に提供し始めた」というものだった。そうしたきめ細かな配慮も、これからの大学生にはとても大事なことだと私も共感した。
2010 年以降、猪口さんと私は日本語教育で先進的な活動をしてきている国際日本語普及協会(AJALT)の理事を委嘱され、年に4回その理事会で顔を合わせて懇談してきた。理事会では、ほかの十数人の理事が真面目に議題についての話をしているのに対し、猪口さんはほぼ常に議題から外れて、日本の大学の後進性や日本の教育の不備な点等について話を発展させ、しかも半ば冗談調の口調で語るため、常に事務局もほかの理事たちも笑いを誘われて、会議全体が和やかな雰囲気になった。そこでの私の役割は、彼が外した議題を元の争点に戻して、そこで注意すべき点をあれこれ指摘するということで、彼と私とがまるでボケとツッコミの掛け合い漫才のような形で話が進行することが多かった。
彼の後半生の目標の一つは、「毎年必ず英文と日本文の著書を最低1冊ずつ出版する」というものであり、それをほぼ実現していたと私は思う。国際教養大学は全ての授業を英語で行っており、教材も殆ど欧米で出版される本や資料を使っている。私が教養大学で「日本の外交」科目を担当せざるをえなくなった時、適当な参考書や教科書が見つからず、困ったことがある。その時偶然猪口さんがオーストラリアで出版した『日本の政治(Japanese Politics Today)』を見つけ、全体に硬い表現が多いけれど英文の資料として貴重だと考え、これを授業の副教材に指定して、学生たちと議論する材料に使った。そのことを彼にすぐ伝えると、実に嬉しそうに「私の書いた英文資料が日本で役立つとは思わなかった」と喜んでいた。
数年前、私が主宰する研究会で「日本の外交」をテーマにシンポジウムを開催したが、そのパネリストに猪口さんに登場してもらおうと連絡を取った。彼は「喜んで出ます」と即答したが、開催日が土曜日だと知って「あ、駄目だ。私は毎週土曜日は朝から晩まで家事・食事の支度をすることになっている。女性 3 人に囲まれたマイノリティだから、大人しくこのルールに従わざるを得ないのですよ」と笑っていた。彼の行動は、いわゆる「象牙の塔」に閉じこもる旧来の学者イメージとは大きく外れて、常に広い世界に目を向け、そこで日本の立ち位置を確認しながら、各国の学者、研究者たちと協力しあっていく体制を作るということになり、その点で、かけがえのない逸材であった。
