「21世紀はグローバル化の時代」を枕詞に、今日、政府・経済界あげて「グローバル人材の育成」を日本の喫緊の重要政策課題に掲げている。その「グローバル人材」とは、日本でも海外でも外国人と対等に付き合い、交渉ができるような優れた職業人が想定され、そういう人材には「高いコミュニケーション能力」=「高い英語力」が不可欠であり、「高い英語力」を身につけることこそが「グローバル人材」の第一条件、というイメージがすっかり流布している。
その背景として、これまで中学・高校・大学と丸10年間、英語を学んできたはずなのにビジネス交渉どころか英語の日常会話も満足にできない社会人が大量にいることが問題視され、それが1990年代初頭の「バブル経済の崩壊」以来、日本が経済的に国際競争力を失い、低迷を続けていることの大きな原因の一つだ、と考えられてきたことにある。
その結果、2000年代初めの小泉内閣から教育改革がかつてないスピードで進められてきた。まず、小中高校レベルでは90年代の「ゆとり教育」が学力低下の原因だと否定され、小学校から英語が必修化され、4技能(聴く・話す・読む・書く)をバランスよく伸ばすことが強調されてきた。高等教育レベルでは国際競争力を高めるために国立大学が法人化されるとともに一律の私学助成が縮小され、さらに来年から4技能を重視する外部試験の導入など大幅な入試制度改革に踏み切ることになった。
民間企業の間では英語力が昇格・昇進の条件になり、社内会議も英語で行うところが出始めて話題となり、テレビでもインターネットでも電車内でも英会話教材、英会話教室の広告が氾濫している。まるでこれからの日本社会では英語が出来なければ出世も出来ないし、国際的に活躍することなどできない、という大合唱が起きているようだ。
だが、それは本当なのだろうか。「英語が出来なければグローバル人材になれない」という思い込みは実は大いなる幻影ではないか。
私が1970年代から30年以上、日本経済新聞記者としてアジア、中東、北米、中南米を取材して回った実体験から言えば、日本人の現地駐在員で本当に優れた「国際人」=「グローバル人材」と言える人たちの間では「高い英語力」を持つ人はかなり少なく、むしろ「英語は苦手で中学生レベルしかない。片言で意味が通じれば何とかなる」「現地語である程度、意思疎通ができれば十分」と言う人たちの方がはるかに多かった。彼らのほとんどは「英語はできるに越したことはないけれど、別にできなくても仕事には困らない」と笑っていた。もちろん、彼らは例外なく「高いコミュニケーション力」の持ち主なのだが、その「コミュニケーション力」とは英語の問題ではなく、その人の魅力的な個性、現地の人たちの文化的・宗教的な背景を理解して、思いやる優しい人柄からきていた。
2004年に国際教養大学教授となってからも、国内や海外で出会った日本人で国際ビジネスの最前線で活躍している人たちの大半は、やはり同じ意見だった。そこで私の結論は「グローバルに活躍できる人に英語は必須ではないし、グローバル人材になる上での必要条件でも十分条件でもない」であり、今もそれが確信となっている。
一般的には「グローバル人材」集団では「高い英語力」が必須の要素のように思われているが、現実には「グローバル人材」集団の中で「高い英語力」を持つ人はごく一部の人たちであり、逆に「高い英語力」を持つ集団の中でも多数派は単に「英語が得意」=「英語オタク」にとどまっていて、交渉能力や業務遂行能力、経営判断に乏しくて「グローバル人材」と呼べる人は案外少ないのが実態だ。それをわかりやすく図示すると、次のようになる。

つまり「グローバル人材」集団の中に「英語力の高い集団」がすっぽりと収まるのでもなければ、逆に「英語力が高い集団」の中に「グローバル人材集団」が入るという二重丸の図式ではない。単に2つの円の一部が重なっているだけなのだ。そして、その割合を考えると、「グローバル人材」で「英語力の高い人」、つまり2つの円が重なる部分の人は2集団の内のそれぞれわずか1~2割にとどまり、「グローバル人材」の8~9割は「英語はまあまあ、そこそこ」と言う人たちだ。彼らの大半は英語力が十分でなくても、仕事で高く評価され、人間的な魅力で現地の人たちに信頼され、尊敬されているのだ。
では、「グローバル人材」の育成に英語は不要なのか、と言えば、決してそうではない。実は英語力を高める努力をすること自体が、言葉以外の「グローバル人材」に必要な資質・能力を鍛え、高めることにつながってくる。それは自分が育った環境とは異なる社会、文化背景を持った人たちを内在的に理解しようという共感能力を高め、現地の人たちを「上から目線」でバカにしたり軽蔑したりするような発想・態度を慎んで、同じ人間として対等の立場で接する訓練を積むことであり、相手の中に自分にない良さ・魅力を発見し、尊敬する姿勢を身に着けることだ。そういう他者(=異文化)理解を深める上で、今や「国際共通語」になっている英語を学び、現地の人たちとのより広く、深いコミュニケーションを図るツール(道具)として利用することがきわめて効率的だからだ。
それこそが先の2つの円の重なる部分の人材を育てることに他ならず、「グローバル人材」にとって、さらに「高い英語力」を備えようと努力し続けることこそが、まさに「鬼に金棒」という強さを発揮することになる、と私は考えている。
