2002年夏、米国のビジネススクールの名門、ペンシルベニア大ウォートン校が東京で初めてアジア会議を開催した。同校は金融、財政、保険分野では全米ナンバーワンの定評があり、世界中の銀行、証券、損保、生保業界に広がる豊富な人脈を誇っている。日本人同窓生もその多くが企業、官庁から派遣されてMBA(経営修士号)を取得したエリートたちだ。そこで日本支部が中心になって「単に同窓生の親睦会にとどめるのではなく、ウォートンの人脈を生かして、アジア全体の経済危機を回避するための処方箋づくりや協力体制づくりを提案したい」との意気込みで国際経済シンポジウムを行なった。そうした動きを日経新聞紙上で紹介したが、取材の過程でいろんな面白い発見があった。MBAは市場価値の高い資格で、有利な転職へのパスポートといわれているが、はたしてそうだろうか。今回は日本のMBA事情について考えてみた。

ビジネススクールの草分け、ウォートン校

ペンシルベニア大学は米独立革命以前の1740年に、植民地時代の中心地だったフィラデルフィアに設立された私立大学で、アイビーリーグの一つ。1765年に全米で最初の医学部をつくり、医学、公衆衛生分野では先駆的な業績を挙げ、1881年には全米最初のビジネススクールとなるウォートン校を開校した。同校は今日まで常にハーバード、スタンフォード大などと並んでビジネススクールの最優良校にランクされてきた。

最新の評価を調べてみると、米ビジネスウイーク誌が在学生や企業の人事採用担当者のアンケート調査を基に隔年で発表している2001年度ランキングでは①ウォートン②ノースウェスタン大ケロッグ校③ハーバード④MIT⑤デューク大、の順だった。またUSニューズ誌が在学生の学力成績や卒業後の給与、待遇などの数値情報をベースに毎年発表している2003年度用評価ランキングでは①スタンフォード②ハーバード③ウォートン④MIT⑤ノースウェスタン、の順になっている。

全米のビジネススクールのMBA取得者は毎年ざっと1万5000人ほど。夜間や短期集中プログラムなどを含めると年に7万人くらいになるという。

そのうちウォートンのMBA取得者は現在、世界137カ国で7万5千人。大多数はアメリカ人だが、アジアからの留学組が3,350人いて、そのうち日本人が705人。企業から派遣された短期プログラム受講者を含めたOBは900人を超し、アジアでも最大多数を誇っている。

歴史をさかのぼると、日本人のウォートンOBは実に早くからいた。1881(明治14)年、開校間もない同校に柴四朗という27歳の男が入学して、84年に学位を得て、翌年帰国している。柴は会津藩士の子で1868(明治元)年、官軍に抵抗して会津若松城に立てこもった白虎隊に14歳で加わり、城外の白虎隊員がほぼ全滅する中で病気のため城中に臥せっていて生き残り、1877(明治10)年の西南戦争では政府軍の臨時将校として西郷軍と戦った人物。三菱財閥を築いた岩崎家の援助を得て79年に渡米、帰国後は文才を生かして東海散士と号し『佳人之奇遇』などの政治小説を書いて啓蒙運動を続けた。ちなみに弟の柴五郎は陸軍士官学校を出て、1894年の日清戦争の時に大本営陸軍部参謀、1904年の日露戦争で砲兵連隊長を務め、第一次大戦後の1919年に陸軍大将、台湾軍司令官となり、1944(昭和19)年に85歳で亡くなっている。この兄弟は旧幕臣の子たちが明治をどう生き抜いたかという点で実に興味深い軌跡を残している。

話をウォートンに戻すと、柴四朗以降も明治10年代にペン大の学部に日本人が既に3人留学していて、ウォートン校の第3期卒業生の中には、四朗の学費を援助した岩崎弥太郎の長男で慶応を出た久弥もいた。久弥は三菱合資社長を1916年まで務め、銀行、鉱山、造船、地所部門を拡大したが、温厚で地味な人柄で、三菱グループの経営は叔父の岩崎弥之助や従弟の小弥太にまかせ、自分は麒麟麦酒(キリンビール)や小岩井農場での酪農事業に力を入れていたという。

それ以降、明治、大正、昭和前期と第二次大戦までのOBの動向は、ほとんどわかっていない。明治以来、「西洋に追いつき、追い越せ」を合言葉に近代化を急いだ日本は、お雇い外国人を多数受け入れる一方、官費で留学生を多数送り出し、西洋の知識と技術を導入することに努めた。当然、欧米の一流大学には官費でも私費でもかなりの数の留学生がいたはずだが、ウォートンに限らず、他の経営大学院についても日本人の勉学ぶりや帰国後どう活躍したかについては、まだ調査もされていないのが実情のようだ。

理論研究からケース・スタディ重視へ

MBAが高く評価されるようになったのは米国でも戦後になってからだ。資本と経営の分離が説かれ、経営者革命が静かに、だが急速に進行する中で、生産性を高めるための新しい経営理論が次々に登場し、そうした理論を研究し、効率よく身につける場として経営大学院が脚光を浴びるようになった。

戦後復興期の日本からもフルブライト奨学生らを中心に1950年代以降、米国への留学生が着実に増えていった。現在、ウォートン日本同窓会名誉会長となっている小林陽太郎・富士ゼロックス会長(69)は58年の卒業。経済同友会代表幹事をはじめ公職が多く、いつも早朝から分刻みで動いている合間を縫って、話を聞いた。

小林氏は2年間の修士課程で「何が本当の問題であり、原因なのかを発見し、対案をいくつも用意して優先順に実践していく、という問題解決の基本を学んだ」と言う。工場経営からマーケティング(営業)、ファイナンス(財務処理)など、あらゆる面でプロセス(手順、過程)を大事にしながら問題解決を図るという基本トレーニングを受けたことが「帰国後の会社経営にも十分役だった」と評価している。富士ゼロックスが76年からTQC(品質管理)運動を展開して業績を挙げた背景には「本当に大事な問題、原因は何か、を問うウォートンの教訓をフルに生かことができたからだ」と考えている。

同時に、一流のビジネススクールにいたことで米国人同級生たちだけでなく欧州、アジア諸国からきていた留学生とも親しくなり、「世界各地の銀行、証券、保険分野で非常にいい人脈、コネクションができて、その後の仕事の上でもきわめて有効だった」と強調している。

特に60年代以降、東のハーバードと西のスタンフォードがケース・スタディ中心の講義で高い評価を得るようになり、ビジネススクールでは最新の経営理論を学ぶというよりも、たくさんの事例研究を通して、企業経営のポイントとなる経営戦略のあり方、生産管理、資金調達、広告宣伝などを具体的に考えることが主流になってきた。日本でもMBAブームが起きて、企業派遣も私費留学も多くなっていった。

90年からウォートン日本同窓会会長を務めている村津敬介氏(53)は私費留学組だ。71年に東大経済学部を出て商社マンになったが、MBAの資格を持つ外国人たちとの折衝で議論しても太刀打ちできないことを思い知らされて、74年に「自分も本格的に理論武装しよう」とウォートン校に留学した。村津氏の実感としては「ハーバードは政治、政界との関係が深く、スタンフォードはビジネスに直結しすぎている感じだが、ウォートンはもっと中立的で、客観的なバランスがとれている」。MBA取得後、米シティバンクに入社して中東各地や東京で国際金融ビジネスに取り組み、84年からは父親の経営していた大阪の医療用ガラス用品会社を引き継ぐ一方、東京を拠点に経営コンサルタント業をして、今はほぼ毎週、東京と大阪を往復している。

日本銀行審議役の堀井昭成氏(50)は、79年に日銀からウォートンに派遣され、「国際分散投資の最適化モデル」論文で81年に学位を取得し、校長の選ぶ最優秀生10数人のうちに入った。東大で会計学を学んだときには原理原則を教えられただけだったが、ウォートンでは大手企業のアニュアル・レポート(年次会計報告書)を基に実務に即して勉強し、「ケース・スタディ(事例研究)とニューメリカル(数値理論)のバランスが実にいい指導をしていることに感心したし、その後の仕事にも実に役に立った」。同期生だった民間企業の日本人10人とは今でも年に1回集まって懇談している。また世界中の国際金融政策担当者にウォートンのOBがいることで、国際間の協議もスムーズにいっているという。

国際人脈を生かした政策提言

村津氏はこの数年、米国に出張して親しい友人たちに会うたびに「日本は経済政策も金融政策もすべておかしい。構造改革もできず、経済が停滞したままで、いいところがない。日本に失望した。もはや期待していない」と歯に衣着せず手厳しく批判され、歯がゆい思いをしてきた。

同窓会では年1回の総会や懇親ゴルフ大会などを恒例行事として開催している。アジア会議は93年以来、香港、シンガポール、台北などで開催してきたが、村津氏は今回、特に「単なる親睦ではなく、まじめに政策提言し、日本の威信回復を図る機会にしたい」と初めて経済シンポジウムを手がけた。タイ、マレーシア、フィリピンなどの中央銀行総裁や各国の銀行、証券トップによるパネル討論には掘井氏も参加した。

そうした戦後世代の活動を名誉会長の小林氏も高く評価している。90年代の日本が「失われた10年」と否定的に見られ、終身雇用、年功序列、家族主義など日本的経営の神話が崩れて、日本再生の模索が続いている折だけに、このアジア会議を「ウォートンの良さを再評価し、われわれが主体的に日本改革の指針を示し、停滞する日本の国際的な地位向上に貢献するバネにしたい」と意義づけていた。

ウォートン日本同窓会は東京・有楽町に事務所を持ち、専任のスタッフまでいるが、他にMBA取得者の多い大学としてハーバード、コロンビア、MIT、スタンフォードがあり、それぞれが親睦会を催している。特にこの五校OBは「五校会」と称して、小林氏ら会社経営者を中心に集まっており、この夏の親睦ゴルフには46人が参加して腕を競った。小林氏は、この人脈をベースに「企業の説明責任、情報公開などが社会的注目を浴びている今こそ、MBAたちが自分たちの責任を自覚して、日本企業の経営の近代化を積極的に進めて世界のトップレベルにまで持っていくよう努力すべきだ」と提唱している。

戦後世代のMBA取得者は五千人

日本人のMBA取得者は1970年代後半から数が増えた。特に80年代、バブル経済を反映するように銀行、証券、商社や大手メーカーがこぞって幹部候補生となる若手を派遣してきた。90年代、バブルがはじけてからは企業派遣が半減した反面、企業のリストラが厳しくなり、先行き不安が広がるのに呼応して、「市場価値の高い資格を取得して高く売り込める人材になろう」という私費留学組が大幅に増えてきた。「氷河時代」と評される就職難の中で、「大卒資格では不十分」とMBAを目指す大学生が増えたし、30歳前後の女性が「結婚は二の次。もっと社会で活躍したい」と留学するケースも目立つ。

この20年ほどは日本から毎年300人以上がMBA取得を目指して留学し、これまで約5000人がMBAを取得している。

では、彼らがMBAにふさわしい厚遇を得ているかというと、決してそうではない。企業派遣者の場合、多くは「頭でっかちではダメだ」「アメリカボケを直せ」と、経営戦略とは無縁なポスト、地方の営業所や支店に異動させられる。元の職場に戻っても先輩たちの年功序列の厚い壁に阻まれて、意気消沈してしまうか、職場で浮き上がって不満を募らせ、辞めてしまうケースが多い。80年代の企業派遣者の半数は折角の資格を社内で生かせないまま、帰国後数年以内に転職してしまっているという。

それには外資系企業が日本人のMBA取得者にねらいを絞って、重点的にヘッドハントしてくるという事情もある。今の職場よりも好条件で、しかも権限の大きい仕事をまかせてくれる、という話に魅せられて外資系に転職するケースがかなり多い。その転職者たちが新天地で活躍しているかというと、これまた一概には言えない。業績本位で高い目標を設定され、それをこなすのにアップアップの状態で苦労している話もあれば、また米国本社のリストラの都合で突然、退職を促されるケースもある。ハイリスク・ハイリターンの世界に入っていかざるを得ないのだ。

また自費留学組の場合、職探しに苦労している。日本企業でMBAを中途採用しようというところはまずないから、外資系に期待せざるを得ないが、職種、待遇、勤務先でなかなかうまく折り合わないのが実情という。そこで最近では自分でベンチャービジネスを起こしたいという起業家志向が高まっている。

二年ほど前からインターネット上でMBA友の会ができ、会員を募っている。20代、30代を中心に、MBA取得者だけでなく、現在、ビジネススクールで学んでいる人、これから学ぼうとしている人が集まって、就職情報の交換や交流会を開催している。これまたMBAの新しい人脈、情報ネットワークづくりの試みだ。小林氏が期待するように、MBAが日本の経済再生、地位向上のリーダー役を担えるかどうか−−それはこうした若者世代の活躍にかかっている。