2003年春、島根県の松江と出雲を訪ねた。小泉八雲が「神々の国の首都」と、こよなく愛した町がどんな所なのか、一度見たかったからだ。宍道湖畔の松江は水の都。江戸時代の譜代大名、松平家の城下町で、城の周りをお堀が巡り、運河がゆったりと流れる。夜、その川端の居酒屋で地元の魚料理を楽しみながら、八雲の曽孫、小泉凡さん(41)と話しこんだ。
八雲の子孫であることが縁で、東京から移り住んで15年。曽祖父の見た風景を追体験し、土地柄のゆったりした人情に触れる中で、曽祖父の思いに共感することが多い、とうなずいていた。
八雲会と機関誌「へるん」

武家屋敷のはずれにある小泉八雲旧居。八雲はここに1年ほどしか住んでいなかったが 、庭をながめ、虫の声を聴くのを無類の楽しみにしていた
武家屋敷のはずれにある小泉八雲旧居。八雲はここに1年ほどしか住んでいなかったが 、庭をながめ、虫の声を聴くのを無類の楽しみにしていた
松江を歩くと、いたる所で「へるんさん」、つまり小泉八雲となったラフカディオ・ハーンに会う。観光ポスターや商店街の看板、標識に、両目を閉じてうつむいた優しい顔のイラストが描かれている。
松江城のお堀端で、武家屋敷のはずれにある小泉八雲旧居と八雲記念館は、観光コースの主要スポットとして訪れる人が絶えない。
こじんまりとした旧居の居間の畳に座って、八雲が愛してやまなかった庭をながめていると、明治半ばからの百十余年の時間が止まって、彼の好きだった蛙の声が聞こえてくるようだった。
旧居の隣の記念館は八雲会の連絡事務所にもなっている。八雲会の歴史は古い。八雲が亡くなって十余年たった1921(大正10)年ごろ、八雲の作品の愛好家や研究者たちが集まって報告会を開いたのが始まりとのこと。その後も次から次の世代へと引き継がれてきた。
特に近年は、島根大学教授だった銭本健二氏(1943年~2002年)のリーダーシップで、八雲の作品をはじめ資料の収集整理や研究発表、目録や研究書の発行、八雲の足跡をたどる旅行などを催してきた。2000年には生誕150周年記念事業を盛大に行い、その詳細な報告を機関誌「へるん」にまとめている。現在の会員は島根県民を中心に350人を超え、毎月のように研究会を開催しているという。
考えてみれば、こうした文学者個人の研究会ができているのはきわめてめずらしい。日本の近現代文学史上で、本人が亡くなった後に学者や一般市民が自主的に会員になって研究会が設立され、長い年月にわたって継続的に活動しているケースがどれほどあるだろうか。小泉八雲は日本の昔話、民話、怪談を詩情豊かに語り直し、さらに日本の宗教、文化、社会を深い共感をもって論じ、海外への優れた日本紹介者となった。外国には八雲の作品を読んで日本に興味を持ち、日本ファンになったという人が少なくない。八雲会はそうした豊かな業績を研究し、顕彰する活動を長く続けてきており、八雲がそれだけ日本人の多くから親しまれ、愛されていることを物語っている。
40歳で来日、松江に魅了された英国人

ハーンは松江で和服姿を好み、畳に正座して読書や執筆にいそしんだという
ラフカディオ・ハーン(1850年~1904年)が日本にやってきたのは、1890(明治23)年の春。ちょうど40歳の時だった。
ハーンはギリシャ生まれのイギリス人だが、幼くして両親と生き別れ、アイルランドの叔母に育てられた。叔母が亡くなってからは孤児となって、19歳の時に独りでアメリカに渡り、新聞記者となった。猟奇的な犯罪事件のルポを書いたり、西インド諸島に滞在してその風俗文化を新聞や雑誌に書き送ったり、紀行作家として活躍していた。
東洋にあこがれ、特に『古事記』などを読んで日本に興味を持ち、アメリカの出版社の特派員として、雑誌類に日本滞在記を書き送る契約を結んで来日したのだった。
太平洋を船で横断して、着いたのは横浜。すぐに神社仏閣の見聞記をまとめたりするが、同行した挿絵画家の方が報酬が高いことを知って怒り、契約を破棄してしまう。そこでとりあえず英語教師のアルバイトをしているうちに、知人の紹介で松江中学の教師の職が見つかり、その夏に喜んで赴任した。
その点、ハーンは日本政府から招かれた、いわゆる「お雇い外国人」ではない。松江に住んでいたのはわずか1年ちょっとだったが、県知事から教職員、学生にまできわめて手厚く遇されたのに感激した。市民の生活ぶり、町の雰囲気、風景に魅了される。
特に人々が神仏を深く敬い、若者たちが老人や親、教師に対して礼儀正しく、敬意を払っているのに感心する。宍道湖の対岸の先には杵築(きずき)と呼ばれる日本最古の神社、出雲大社がある。そこに外国人で初めて昇殿を許されたことに感激し、日本人の生活と心の中に八百万の神々が息づいていることを実感した。
ハーンの日本に関する最初の著書、『知られざる日本の面影』には、そうした「美しい日本」がきわめて生き生きと描かれている。来日間もないハーンが、松江で異郷からの客として歓待され、優れた教師として尊敬されたことが、彼の日本の印象をよりいっそう美しくしたことは間違いない。彼は40年間、身の置き所のないまま欧米各地をさまよい、幽霊、亡霊、妖怪といった霊的なもの、神秘的なもの、神聖なものに引かれて、探し求めていた。ハーンが民俗学的な興味、文化人類学的な好奇心とともに、いわば「心の故郷」とも言うべき理想郷、そして安住の地を発見した喜びがあふれてくるような文章であり、ほとんど手放しに近い日本礼賛論となっている。
小泉節子との結婚でコンプレックスを克服
ハーンの日本観にはもうひとつ、重要なきっかけがあった。松江滞在中に家政婦として世話をしてくれた土族の娘、小泉節子がすっかり気に入って、結婚したことだ。これは明治時代に来日した外国人「らしくない」行動といえるだろう。
当時、外国人男性が日本に滞在する場合、「テンポラリー・ワイフ(一時妻、現地妻)」と呼ばれる家政婦を持つことが多かったが、帰国すれば関係は終わり、というケースがほとんどだった。例えば、ピエール・ロチが長崎に来たフランス人将校と日本人妻の話を小説『お菊さん』に描き、それがプッチーニのオペラ「マダム・バタフライ」に翻案されたように。
ハーンはこの点でも例外だった。日本に滞在して1年足らずで日本人女性との結婚を決意したことは、日本を永住の地、終の棲家とすることを想定したものと考えられる。それは日本人から見れば、現地妻を正式の妻にするほど日本を愛した男、と高く評価されることになる一方、日本にいる外国人社会の中では「日本に魅入られた男」と変わり者扱いされることになる。
たしかに、ハーンはいわゆる「普通の西洋人」とは言いにくい。身長は5フィート3インチ、つまり157センチメートルと小柄で、肌はギリシャ人の母親の血を継いで浅黒い。しかも少年時代の事故で左目を失明し、傷跡が残っている。右目も強度の近眼で、眼球が異様に飛び出ている。だから写真は顔の右半分しか撮らせなかったという。
イギリス軍の軍医で任地を転々としていた父とほとんど接することもなく、母とも幼くして離別して、家庭的には恵まれない半生を送ってきた。イギリスとフランスの神学校を中退しただけで、学歴も資格として誇れるものも持っていない。
このように容姿、家族、学歴のいずれについても、精神的な負い目、コンプレックスを抱いていた男が、日本では温かく尊敬の念を持って迎えられたのだ。いかに心が癒され、自信を持てるようになったか、容易に想像できることだ。
妻の節子は、文字通り夫の目となり耳となって、ハーンが関心を持っていた日本の昔話、民話、説話、怪談話を集めて語り聞かせ、夫の豊かな想像力を刺激していく。
男3人、女1人と4児に恵まれ、ハーンは初めて家庭生活を楽しむことができた。
だが、自分が英国籍のままでは自分の死後、家族に財産を相続することができない。家父長として家族、縁者を守るためには帰化するのが最もよいと判断する。妻の実家である小泉家に入籍する形で帰化することが、1896年に認められた。日本名とした八雲は、古事記の歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに」から取っている。スサノオノミコトがクシナダ姫を妻にする時の祝い歌に、出雲と妻への愛情を託した名であろう。同時に「神々の国の首都」の住人であったことを喜ぶ気持ちもこめられているはずだ。

松江城のお様にかかる橋。屋形船によるお様の巡回コースは観光客の人気の的になっている
「日本の面影」は失ったものの幻影か
実はハーンが絶賛したのは松江だけで、次の赴任地の熊本から、神戸、東京は、どちらかと言えば否定的な評価の方が多い。初めて接する感が薄れ、生活者の目で見ることによって、日本人と日本社会の長所も短所もわかってきて、是々非々で判断するようになる、という事情もあるだろう。
だがそれだけではなく、時代状況の変化も影響したはずだ。日本が日清戦争(1894年~1895年)から日露戦争(1904年~1905年)へと、「富国強兵」を拡大していた時代である。「日本は何という恐ろしい速さで近代化していくのでしょう。それも服装や建築や習慣ではなく、心と態度においてです」と、ハーンは友人への手紙でため息をつく。7年後に松江を再び訪れた時の印象を、ハーンは次のように書いている。
「何かが失われていた。何か目に見えぬもの−−その不在こそが、私の胸中の漠たる悲哀の源なのだ。(中略)旧友は私を温かく迎えもてなしてくれた。町は初夏の明るい日差しを浴びて、昔と変わらず美しかった。松江ならではの独自の町並み、慣れ親しんだ店先、古めかしい神社仏閣、静まりかえった武家屋敷と妖精の棲んでいるようなお庭、すべては過ぎた日のままだった。(中略)失われた魅力とは私自身の人生から消えうせてしまったもの−−初めて心に焼きついた日本の幻影にまつわる何かなのだろうか」(「『明治日本の面影』、講談社学術文庫)自分の愛する「日本の面影」は「幻影」なのかその問いに悩まされつつ、日本に帰化し、日本人になろうとした。日本の幽霊や妖怪に魅せられて『怪談』を書き続ける一方、神道と仏教の研究から「神国日本」の解明を試みたのだった。
ネーミングの大切さを受け継いで4代
八雲の曾孫にあたる凡さんも小柄だが、端正な顔立ちの二枚目である。宍道湖名物のしじみ汁を一緒にすすりながら、八雲の子孫について聞いた。するとそこに、名づけることへのこだわりが脈々と息づいていることがわかった。
日本人となった小泉八雲は、長男の一雄の名前を、英国での自分のファーストネームの日本表記「ラフカズオ」からとった。
一雄の長男として生まれた時(とき)は、八雲が常々「時間を大切に」を口ぐせにしていたことから名づけられ、親戚の中では「タイムちゃん」の愛称で呼ばれたという。
八雲の孫にあたる時さんは、戦後にGHQから米軍司令部に勤務し、マッカーサー総司令官の副官だったボナー・フェラーズを優れた人物と尊敬していて、1961(昭和36)年に生まれた独り息子を「凡」と名づけた。ボナーとフランス語のボン(「良い」)をかけたものだった。
凡さんは東京・世田谷で生まれ育ち、成城学園の中学、高校から大学へ進んだ。大学院で民俗学を専攻して、全国各地を歩き回っては道祖神や地蔵さん、村の境界のあり方などについて研究してきた。
26歳の時にハーンの生まれ故郷、ギリシャのレフカス島を訪問して、その湾の夕暮れの光景が宍道湖のものと酷似していることに驚いた。曽祖父が松江を愛した理由のひとつには、自分の生まれ故郷とよく似ていることがあったのではないかと感じた。
凡さんはその後、松江市長から「ぜひ松江市にきてほしい」と請われて、八雲記念館の学芸員を務めた。1996(平成8)年から島根女子短大の講師となり、昨年春から助教授となって比較文化論、郷土文学などを教えている。
その間に地元出身の女性と結婚し、今年10歳になる長男には「想」と名づけた。
八雲が松江で初めて講演したテーマが、「教育における想像力の問題」だった。日本の教育が記憶力を偏重している点を指摘し、想像力を同時に養うべきだと説いたことに共感したからという。八雲の指摘は、1世紀以上経った今もそっくり当てはまる。想像力を豊かにして創造力を高めることが、ますます重要になっているのは間違いない。
優れた日本理解者として神格化(?)
それにしても日本人は小泉八雲が大好きだ。インターネットでも、八雲を紹介するホームページや掲示板がにぎやかにある。大学で東西文化交流、日米比較文学などの分野で、八雲を研究テーマに取り上げる学生や研究者は毎年、相当な数に上っているという。
『旅する帽子−−小説ラフカディオ・ハーン』を書いた東京工業大学のロジャー・パルバース教授と会って聞いてみた。
「ハーンは偏屈で、人格的にもおかしいところがある。日本人は彼を優れた日本理解者として神格化しすぎている」と、八雲の人生をつぶさに調べた彼はいう。
戦後、日本に来た外国人で、熱烈な日本びいきになる男にはどこか共通した点がある。西欧文化に限界を感じるとか、理想郷を探し求めるとか、何か、コンプレックスを抱いている人が多かったような気がする。そうした男が日本の歴史と伝統文化、優しい日本女性に魅了され、日本を礼賛する例が多かった。その先駆的な役割を果たしたのが八雲と言えるのかもしれない。だが最近は、欧米でも若い世代ほどそうしたコンプレックスとは無縁で、純然たる好奇心、学問的探究心から日本を研究し、是々非々で理解を深めようとするタイプが増えてきたように思う。そうした人たちにとっても、八雲は豊かな想像力で優れた導きの糸であり続けるだろう。
I visited Matsue City, where Lafcadio Hearn, or Koizumi Yakumo, stayed as an English teacher in 1890s. He was fascinated with the local people’s life and the surrounding nature, calling it “the capital city of Gods,” based on the old sacred Izumo shrine on the other side of the lake Shinjiko. I met his great-grand son, Mr. Bon Koizumi, an assistant professor at the local university, who shared Hearn’s love of the local culture and assured me the neverending love of the Japanese people to Hearn. Yakumo still lives in local people’s hearts and minds.
