この春、長崎を訪ねた。高校の修学旅行以来なので、実に40年ぶりに近い。

出島の整備が進んでいる。江戸時代の唯一「外」に開かれた町

オランダ坂。グラバー邸。近代日本の西洋文化の受け入れ口だった。

大浦天主堂。キリスト教。カトリック教会。

孔子廟が歴史文化博物館になっている。中華街。長崎ちゃんぽん、和洋折衷の典型。

唐寺もいくつか。興福寺。

浦上天主堂の近く。原爆の爆心地。西洋文明の粋、精華といってもいい。

 

長崎は近世日本と西洋との接点だった。16世紀以来、ポルトガル、スペイン、イタリアにオランダ、イギリスなど欧州の列強がアジアに商権を求め、「黄金の国」を探してやってきた。インド、ジャワ、マカオから潮に乗って、西洋の機械文明とそれを支えた宗教、キリスト教がやってきた。それを最初に受け入れたのが九州各地の戦国大名であり、その領民たちだった。信長に保護された1580年代には九州から近畿にかけて15万人以上の信者がいたという。

そして1587年、秀吉のバテレン追放令によってキリシタン迫害の時代が始まる。1613年には徳川幕府がキリスト教禁止令を出す。

鎖国時代の日本で「外」に最も開かれていた町が長崎であった。

そういえば、文明堂のカステラ本舗は出島のすぐ近くだ。殉教。マリア観音。

その長崎市の郊外、外海町。文字通り、東シナ海に面して、五島列島の水平線に沈む夕日がとりわけ美しいところだ。

踏絵を踏んで転向した宣教師、司祭を主人公とする

「参ろうや、参ろうや パライソ(天国)の寺に参ろうや」

拷問を受け、死んでいく日本人信徒を見つめながら

「ああ、雨は小やみなく海にふりつづく。そして、海は彼らを殺したあと、ただ不気味に押し黙っている」

ほんとうに雨の多いところだ。

「デウスと大日と混同した日本人はその時から我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものを作りあげはじめたのだ」

「日本人は人間を超えた存在(神)を考える力も持っていない」

「自分は今、自分の生涯で最も美しいと思ってきたもの、最も聖(きよ)らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ」

文学碑「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」

外海町は「キリシタンの里」と呼ばれる。日本で最も長いキリシタンの歴史を持ち、迫害を受けた江戸時代にも「隠れキリシタン」が脈々と受け継がれた。明治時代には長崎市内の大浦天主堂からフランス人のマルコ・ド・ロ神父が移ってきて出津教会を建設して布教に努める一方、病院、保育所をつくり、パン、マカロニ、ソーメン、織物などの授産事業を進め、農業、漁業、土木事業などまで指導した。その功績をたたえて、今も町民は「ドロさま」と敬意をこめて呼ぶ。

取材旅行で何度か訪れた遠藤は、ここをモデルに『沈黙』の舞台、ポルトガル人宣教師が潜入したトモギ村をつくる。

山を背にして海に面した傾斜地を縫う道路に遠藤周作文学館がある。平成12年春に開館。この春で3年目を迎える。

研究員の藤田尚子さん(27)は遠藤文学に「恋して」毎日、蔵書の整理に明け暮れている。中学時代から遠藤の作品に魅せられて、天理大の卒論は遠藤周作の「母なるもの」と聖母マリアの関係を研究した。京都光華女子大大学院では長崎を舞台にしたカトリック教徒を主人公にした「女の一生」論では自己犠牲の変容をテーマにした。

ここに文学館ができたのは、没後、友人たちが建てる場所を全国から公募したのがきっかけ。東京都町田市の自宅、軽井沢と京都・嵯峨野にある別荘、キリシタンのシンボルでもある長崎市内の大浦天主堂近辺に外海町、と5箇所の有力候補に絞られ、最終的に遺族らが現地を見て、外海町に決まった。

本人の還暦祝いでできた文学碑がある。

助役の東さん。

教育長。予想を大きく上回る人手。

急な山肌につくられた墓地には、洋風と和風が混ざった独特の墓石が並び、どれも仏教風に「〇〇家の墓」と刻まれている。信仰が個人のものでなく、家族のものであり、祖霊崇拝を物語っている。

外海町は過疎の町。2500世帯で5700人ほどの町だが、年に20%近く人口が減っている。今、3人に一人が65歳以上で、

カトリック大浦教会の日曜ミサに参列した。教会には200人を超す信者が席を埋める。

女性が8割を占める。白いレースのベールを頭にかけ、賛美歌を歌い、司祭の言葉に大きくうなずく。長崎はたしかに雨が多い。梅雨入り前なのに、ほぼ毎日、断続的に小雨がぱらつく。司祭が「今日は小学校の運動会が予定されていたけれど、この雨で延期されました。本人も親御さんたちも残念だろうけれど、順延された日には一生懸命がんばってください」。

遠藤周作(1923-1996)

東京生まれ。小学四年生の時、両親が離婚して神戸に移る。伯母の影響でカトリック教会に通い始め、11歳の時に母の勧めで兄とともに洗礼を受けて入信した。

慶応大仏文科在学中から作家を志し、50年に戦後最初の留学生としてフランスに行き、3年間、カトリック文学を勉強し、病気で帰国する。

その作家活動は、生涯を通じて「母に着せられた洋服(キリスト教)を、自分の手で仕立て直し、日本人の自分の体に合った和服に変える」ことをテーマにしていた。

55年に『白い人』で芥川賞、58年の『海と毒薬』で新潮社文学賞、毎日出版文化賞。66年、「転びバテレン」の苦悩を描いた『沈黙』は遠藤の代表作と高く評価され、73年の『死海のほとり』と『イエスの生涯』で独自のイエス像――奇跡を行なわず、犯罪者、弱者の苦しみ、悲しみを共有する同伴者ーーをつくりあげた。「狐狸庵」シリーズのユーモア・エッセイ集でも知られる。81年に芸術院会員、85年に日本ペンクラブ会長、88年に文化功労者に選ばれ、95年に文化勲章を受章。