「営業推進本部って何ですか」「どんなお仕事をなさっているのですか」――初めて会う人に名刺を渡すと、必ずと言っていいほど、こう聞かれる。無理もない。この組織ができて丸8年経つが、日経新聞社内でも未だによく同じ質問を浴びて、説明に苦労している。営業といっても、別に「新聞を買ってください」とセールスに歩き回るわけではない。ただし新聞の拡張販売に協力することは、仕事の一部ではある。かんたんに言えば、新聞社として何か新しいプロジェクトを企画し、それを主催(あるいは関係機関と共催)して、営業収入を増やすことに結び付けるのが主な仕事であり、要はモノを売るのではなく、新しいプロジェクトの企画、アイデアを売るのが仕事だ。そうした新規事業を実現するために関係省庁、業界団体、専門家、関係企業の間を回って協力を取り付け、合わせて資金を出してくれるスポンサーを見つけるという、まさにプロデューサー的な役割をするわけだ。

横断的に、自由に発想し、行動する

 新聞記者が天職だと思っていた私が、現在のポストに就いたのは96年春だった。

 営業推進本部という聞き慣れない組織が94年にできたことは承知していた。バブル経済が崩壊して、どの新聞社も経営事情が厳しくなってきた折、従来の枠を越えた発想と行動力で、新しい事業収入や広告収入、販売促進の道を探るゲリラ部隊として誕生したという。メンバーの中心は編集局出身者で、それぞれが記者時代に培った人脈と経験を生かして、新しい分野を開拓することが期待されていた。

 それがいろんな国際交流プロジェクトを手がけることになり、その初代担当部長に私が指名された。愛着の深い編集局を離れるのは辛かったが、いざ担当してみると、局単位の縦割組織で決まった仕事をこなすのではなく、社内横断的に全く自由に発想し、活動できる。本部制の良さをフルに生かせば、いくらでも面白い有意義な仕事ができる職場だ、とすぐにわかった。

 着任早々、ベトナム政府代表団を招いて日経主催のベトナム経済セミナーを2日間開催する舞台監督役を務めた時には、数日間、ホテルに泊り込みで一行の世話をし、細かなスケジュール調整など、取材記者の立場では決して気づかない裏方の苦労もたっぷり味わった。

 そこで最初に自分で発案し、その年の秋に実現させたのが「NGOの国際協力のあり方を考えるシンポジウム」だった。アメリカ特派員時代に米国内のNPO(非営利団体)、NGO(非政府組織)の活発な活動ぶりに感心し、いろんな団体を取材していたのが下敷きになった。

NGOの国際協力活動を支援する

 いずれ日本でもNPO、NGO活動が盛んになるだろうし、その場合、日本の従来の市民団体に多い「反政府・反資本」を掲げた政治的な色彩の濃い活動ではなく、政府や企業と友好関係を築きながら社会的に有意義な活動をする団体がたくさん登場してくるだろう、とりわけ、今後は政党色のないごく普通の主婦、学生、会社員が海外旅行や駐在員生活をきっかけにアジア、アフリカなど発展途上国の人たちに援助の手を差し伸べる「草の根の国際貢献活動」が広がってくるだろう、そうしたNGO活動を積極的に支援していくために、官公庁、企業、NGOがそれぞれどうすべきかを多角的に考える時期にきているのではないか――そんな問題意識から、関係者を訪ねて回った。

 最初に「大賛成。いい企画だ」と喜んでくれたのがSVA(曹同宗国際ボランティア会)専務理事の有馬実成さんだった。SVAは東南アジア各地でスラム街の教育、医療問題に取り組んで大きな実績を挙げており、有馬さんは、数あるNGOの間でも優れたオピニオン・リーダーと高く評価されていた。日本のNGOの抱える問題点を淡々と語り、法制度面、財政面、税制面などをどう整備すべきかを実感をこめて諄諄(じゅんじゅん)と説いて、指針を与えてくれた。

 さらに、さまざまなNGOの代表十数人に会い、学者や研究者、役人、企業関係者の意見も聞いて回って、案を練っていった。シンポジウムの基調講演者には、外国の代表的なNGOとして米国のCARE理事長、英国OXFAMのアジア代表を招くことにして、出演交渉して快諾を得た。パネル討論にはJVC(日本ボランティアセンター)、オイスカ・インターナショナル、難民を助ける会、NGO活動促進センターの代表に、経団連、日産、明治生命、富士ゼロックスなどの社会貢献担当責任者に参加してもらった。

 日経としても初めてのNGOシンポであり、他のマスコミでも企画しない顔ぶれと内容になり、NGOグループからも産業界からも好評を得ることができた。

 普通、シンポジウムを開催するだけなら二百万円もあればできるが、海外から要人を招待すると飛行機代、ホテル代で一人軽く百-二百万円はかかる。しかもシンポの概要を大きく広告特集の形で紙面に掲載するには、夕刊1ページで1千万円、朝刊1ページで2千万円必要になる。その資金をどう捻出するかが最大の難関だったが、NGO支援に力を入れ始めていた外務省や民間の国際交流財団に協力してもらって、事実上、1千3百万円ほどを工面して、夕刊の特集実現に漕ぎつけた。24年間の記者時代、仕事で金をもらうことなど一度も考えたこともなかったのが、お金を出してもらうために頭を下げることを覚えた(それも深い角度で)。

 有馬さんにはその後も折に触れて助言を乞い、昨年夏には入院先の病院にまで何度か電話して、次ぎのプロジェクト構想の相談にも乗ってもらっていたが、昨秋、ガンで亡くなってしまった。享年64歳。私にとっても大きなショックであり、都内の葬儀には大勢の参列者に混じって、有馬さんの早過ぎる死を悼んだ。

プロジェクト成功のカギは人脈

 この5年間、毎年5-10件のプロジェクトを手がけてきたが、振り返ってみれば、成功した事業はすべて人脈、それもキーパーソンに恵まれたからだったと痛感している。

 国際機関、アセアンセンターから相談を受けて、97年秋に同センターと日経が「アセアン設立30周年記念シンポジウム」を共催したのも、通産省や外務省からセンターに出向していた職員と意気投合し、一緒に楽しく汗をかこう、と約束したのがきっかけだった。アセアン加盟各国からの要人を多数招いて一流ホテルでシンポとレセプションを合わせて行い、シンポの内容は日経紙面と英文紙「ニッケイ・ウイークリー」で特集する。この企画がうまくできたので、98年、2000年にも同じ形式でシンポジウムを共催した。

 予算的には毎回2500-5000万円くらいかかったが、センターが半分用意し、残りは民間企業から協賛を得ることにして、私が企業回りをした。企画書を作成し、アセアン諸国に進出している優良企業にねらいを絞って依頼して回ったが、もちろん各社ともおいそれと首を縦には振ってくれない。企画の意義を強調するだけではダメで、協賛することがその会社にとって、いかに具体的なメリットがあるかを説かなければならない。社長、会長に出番を用意したり、関係国政府首脳との懇談の機会を提案したり、現地法人の経営にも役立つ方策を提案することにも心を砕いた。最後には、恩田宗センター事務総長に一緒に協賛会社トップにお願いに行ってもらうことで、何とか協賛を取り付けることができた。

 コロンビア、アルゼンチン、チリなど南米諸国の大使館からは大統領が来日するのを機に日経で特別講演会やセミナーをやってくれないかと相談され、外務省や警備当局と何度も打ち合わせしながら、何とかトラブルもなく、こなしてきた。米ハーバード大学の募金キャンペーンやスタンフォード大学のセミナーなどに協力もしてきた。

 日本国内だけでなく、相手国に出かけていくケースもある。メキシコ政府の熱心な呼びかけに応じて、99年にはメキシコシティで経済シンポジウムを開催した。特派員時代に何度も訪れていて土地カンがあるし、2回の事前調査で、現地の日本商工会議所とメキシコの経済団体の責任者が全面協力を約束してくれて、実現できた。

 メキシコでは現場責任者として、社長のあいさつ文から運営マニュアル、司会進行の台本まですべて自分で書き、当日は舞台監督よろしく時計と運営マニュアルをにらみながらやきもきし通しだった。大統領の登場時間、講演時間が急に変わったり、中央銀行総裁の講演中に同時通訳者が倒れて、急きょ、講演を英語に切り替えてもらってしのいだり、とハプニングの連続に大汗をかいた。それも、終わりよければすべて良し。「大成功」と現地関係者に喝采を浴び、苦労した現地の仲間たちと明け方まで祝杯を重ねたのが楽しい思い出になった。

志を高く持って、自分から仕掛ける

 実にいろんな国のいろんな機関、団体が、多種多様な企画を持ちかけてくる。その理由として「日経が日本の報道機関の中でもとりわけ政府、産業界に影響力が強く、メディアとしての国民の信頼度も高いからだ」と明言されると、こちらも何とか協力したい、という気になる。同時に、受身の姿勢ではなく、むしろ積極的にこちらから仕掛けていくプロジェクトも年々増えている。その典型が、昨年夏、東京ビッグサイトで17日間にわたって開催した「夢の技術展」だった。

 西暦2000年を記念するミレニアム・プロジェクトとして全社体制で取り組むことを経営陣が決めたのを受けて、営業推進本部がその事務局となって2年がかりで準備したものだ。

 日経のイベントというと、従来、ビジネスマンを対象にしたものがほとんどだったが、この技術展は、次代の日本を担う子供たちに科学の夢を育んでもらおうと、21世紀に飛躍的な発展が期待される情報通信、生命科学、宇宙・海洋開発などの分野で最新技術の成果をわかりやすく展示してもらうことをねらった。

 政府、産業界に呼びかけた結果、5万平方メートルのスペースに民間企業が50社、国の研究機関が50、自治体などが10近く参加してくれた。企業からは100平方メートル単位で出展料を1700万円払ってもらう。国公立の研究所からは出展料は取らずに、役所が捻出する予算で最大限、質のいい展示物を、それもできるだけ触って体験できるものを作ってくれるよう頼んで回った。会場の内外では遊んで楽しめるアトラクションとして水ロケット教室やコンサート、大道芸人たちのパフォーマンスなど盛りだくさんのプログラムも用意した。

 事業規模はざっと数十億円。動員目標を100万人と高く掲げたが、結果は110万人を突破して、一報道機関の主催するイベントとしては空前の集客を記録した。会期中、前半は雨にたたられて気をもんだが、親子連れが日を追って増え、後半はどこのブースも長蛇の列ができて、出展者が事前に用意した配布物が足りなくなり、急いで追加注文するところが続出した。

 会場を視察した各国大使が「新聞社がこれほど大規模なイベントをするとは」と驚き、中国大使は「こんな催しを中国でもやってほしい」と日経社長に“直訴”したという。 これほど大規模なものはとても毎年はできない。だがこれからも、志を高く持って、良質の企画、新しいプロジェクトに挑戦していこう、と同僚たちと話している。