国際交流事業に関心のある人で、J.W.フルブライト(1905-1995)の名前を知らない人はいないだろう。米上院議員を30年務め、第二次大戦後まもなく、日本をはじめ世界各国と米国との留学生交換制度を創設し,今もなお世界中で「留学生制度の父」「良心的な政治家の鑑」と際立って高い評価を得ている人だ。

 私はフルブライト氏がまだ元気だった1991年、氏のゴーストライターとなって、日本経済新聞朝刊文化面の「私の履歴書」にその半生記を連載し、それをもとに氏の初めての正式な自伝として出版した。彼ほど魅力的で楽しい取材相手は、長い新聞記者生活の中でもなかったといえるほどで、その生涯を通じて「大国の横暴」「権力の驕り」を厳しく批判し続けた姿勢を目の当たりにして、彼こそ真の国際人なのだということを実感させられた。

「私の履歴書」の初めての外国人

 日経新聞の「私の履歴書」は戦後、日本の各界の代表的人物にその半生をつづってもらう企画で、1960年代以降は一人で丸1ヶ月連載し、年間に12人が登場する形式を今日まで続けている。誰に登場してもらうかは、編集局内全体でさまざまな分野から候補者を挙げ、文化部が分野別のバランスを考慮しながら絞り込み、本人の内諾を得た後で、最終的には社長が主宰する常務会で決定する。「履歴書」は日経の看板コラムとなり、ここに登場することが、文化人ならば人間国宝、文化勲章授章者となるほどの功なり名遂げた証という評価が定着している。

 そして、これは内幕話だが、そうした登場人物本人が30日分の原稿をすべて書くのはせいぜい作家や学者など文筆業に携わっている人たちに限られ、政治家、実業家、文化人などほとんどの場合、日経記者が本人から長時間、聞き書きをして、読みやすい文章にまとめているのが実状だ。

 このコラムに、世界的な指導者、国際的に活躍した外国人も登場させたらいいのではないか、という意見は社内でも早くからあった。かくいう私も社会部記者時代、新聞が「国際化の時代」を標榜するなら率先して「紙面の国際化」を図るべきだ、などと仲間たちとよく話していたものだ。

 だが問題がいくつもあった。まず、どんな人物がふさわしいかの選定だ。たとえこちらが有力候補と想定しても、本人が承諾するかどうかが第一の関門となる。次に本人が承諾しても、本人に書いてもらう方式では、日本人になじみのない地名、人名、社会状況、事件などが延々と出てきた場合、日本人読者の関心をどれだけ引き付けられるか。1回1600字の分量で計30回、毎日、読者に興味深く読んでもらえるものが期待できるだろうか、という内容的な問題がある。さらに、国内と同じ聞き書き方式でやる場合、十分な取材時間、インタビュー時間がとれるかどうか、英語(あるいは登場人物の母国語)のインタビューと日本語の記事との整合性、本人の原稿チェックをどうこなすか、などという記事作成上の実務的な問題も非常に重要だった。要は「言うは安くして行い難し」の典型のような企画案だ、ということで長い間、ペンディングになっていた。

 それがまったく思いもかけない形で実現したのは、私がロサンゼルス支局長の任務を終えて、編集局国際2部次長として東京に戻って間もなくのことだった。社会部の先輩である文化部長に呼ばれると「君の念願だった外国人を登場させることを決めたから、君がやるんだ」と突然の宣告を受けた。

 フ氏は当時85歳。政界を引退して15年経っており、2年ほど前に脳卒中で倒れてリハビリ中で、体調がよければ何とか応じられる、ということだった。それで「履歴書」に登場する外人第1号に内定し、本人の気の変わらぬうちに、体調のいいうちに、と1991年1月、ろくに準備もしないまま、私がワシントンに飛んで、聞き書きをすることになった。

85歳で再婚し、黄金の日々

 フルブライト夫妻に初めて会ったのは、ホワイトハウスと連邦議会のほぼ中間に位置するビルの中だった。フ氏は大手国際法律事務所の顧問をしており、このオフィスに週4日出勤していた。大きな手でしっかり握手して、満面に笑みをうかべながら、深みのある声で語り始めた。いわく、脳卒中の影響で右手のしびれがとれず、字を書くのも辛い、杖がなくては歩けない、好きなゴルフももうできない、目は白内障で、補聴器がないと人の話も聞けない、ろれつもよく回らない、このところ記憶力が急速に衰えて、地名、人名、年月日などがなかなか出てこない、こんなボケ老人だから、とてもまともな回顧談などできそうにない、云々。

 その「ないない尽くし」を快活に、ユーモアたっぷりに話すのに、思わず何度も吹き出しながら、これなら全く心配ない、このグチ話自体がまさに連載の出だしに打ってつけだし、予想以上に楽しい回顧録になりそうだ、と直感した。世の中には一度会っただけで魅了してしまう人がいるが、氏はその典型だった。

 と同時に、横でニコニコ笑っている夫人がまたとても若くて魅力的なのにも驚いた。聞けば、ほんの1年前に再婚したばかり。夫人は28歳年下で、フ氏の実の娘よりも若いという。夫妻が新婚生活を楽しんでいる様子がよくうかがえ、とりあえず、毎週2回、朝、自宅で寛げる時に2時間ずつ6回、計12時間インタビューすることで了解を得た。

 自宅は議事堂から車で20分ほどの閑静な住宅地にあり、すぐ近くに日本大使公邸や世界銀行総裁邸が並んでいる。ただし豪邸どころか、飾り気のない本人の性格そのままのような、シンプルでごく普通の中流家庭向きの2階家で、1950年以来住み慣れた家とのことだった。

 ここで、事前に渡したおおまかな年代順のトピックに沿って、当時の写真や資料コピーをテーブルいっぱいに広げて、話を聞いていった。

 アーカンソーという貧しい南部農村州の出身で、34歳で地元大学の学長になり、知事とケンカして連邦議会議員になった。第二次大戦中に戦争を再発させないための国際連合の設置を提唱し、戦後、若者の国際理解を深めることが戦争をなくす最善の道、と留学制度法を成立させた。1950年前半に全米で吹き荒れたマッカーシズム(赤狩り)に敢然と抵抗し、59年から74年まで上院外交委員長をして歴代政府の外交政策の監視役を務めた。民主党の大統領候補に名前が挙がったり、ケネディ政権の国務長官候補にもなったが、議会人で通すことに誇りを持ち、ジョンソン大統領がベトナム戦争を拡大させるのに強く反対し、ニクソン大統領がベトナム戦争を終結させ、中国との国交を樹立したことを高く評価した。74年の選挙で落選、政界を引退したあとは世界各国から国際交流イベントに招かれて講演したり、表彰を受けたりする日々を送っている。

 そんな半生を振り返るのに「もうすっかりボケて、思い出だせんなあ」と言いながら、写真を見せると、この時はこうだった、と当時の模様をほうふつとさせるように語り出す。時々、地名や人名で詰まると、横にいる夫人がすかさず、○○でしょ、と教える。そのたびに、驚いたように「君がまだ生まれてもいない時代のことなのに、どうして知っているんだ」と聞く。「だって、私はあなたの妻だから、あなたのことを何でも知りたくて勉強したのよ」と夫人が笑うと、「それにしても、なんて頭がいいんだろう。すごいなあ」「尊敬する?」「うん、ものすごくする」と夫婦で掛け合い漫才を始める。

 私と会うたびに「私はもう86歳だよ。君はいくつ?――私の半分じゃないか、若くていいねえ」が恒例のあいさつだった。夫人がすかさず「いえ、まだ誕生日前だから85よ」と注意すると、いたずらを見つかった子供のように首をすくめて「そうか、まだ少し若いんだ」と照れ笑いする。30年に及ぶ議員生活で、どうして選挙に当選できたかを聞くと「たぶん、対立候補よりたくさん得票できたからだろう」と真顔で言う。夫人と私が「なぜ、たくさん得票できたか」と聞き直すと、困ったように首を傾げて「なぜかなあ。私にはわからん。君たちの方が頭がいいんだろうから、教えてくれ」。

「権力の驕り」に抵抗し続けた生涯

 カーター大統領は外交オンチ、レーガン大統領は東西冷戦をハリウッドのSF映画と勘違いしてSDI(戦略防衛構想)のスター・ウオーズを展開しようとしている、ブッシュ大統領は起こすべきでない湾岸戦争を始めて、歴史に汚点を残したーーちょうど湾岸戦争が始まったばかりで、国民の90%が大統領の決断を支持していたときに、堂々と政府批判する。反骨精神は健在であり、その歯に衣着せぬ人物評には、小気味よさがあった。

 決して党利党略にとらわれず、常に世界平和を求めて、アメリカの「大国の驕り」を批判し続け、自分の信念と良心にかけて堂々と行動する勇気ある政治家――それが氏に対する一般的評価だが、本人は「私はそんなに偉くないよ。過大評価だ」と譲らない。「私は争いが嫌いだし、単に政治や外交に良識を求めただけだ」「私はおとなしくて合理的で、保守的な、ごくごく普通の人間だ」と強調する。そばで夫人が「本当にあなたほど頑固な人は見たことがないわよ。決して普通ではないわね」とクスクス笑っている。

 その二人のなれそめ。氏は最初の妻を85年に亡くし、すっかり気落ちしていたが、87年に現夫人がフルブライト同窓会事務局長職に就いたのがきっかけで知り合い、仕事の打ち合わせなどで親しくなった。氏がいつ、どんな形でプロポーズしたか。本人は照れて「忘れた」「記憶にない」を繰り返したが、夫人が詳細に場面を再現すると「そうだったかなあ」ととぼけ、天井を仰ぎながら目を細めていた。再婚話を実の娘2人にそれぞれ電話で伝えた時の反応を尋ねた時、氏がマジメな顔で「二人ともひきつけを起こしたよ(They got fit.)」とうなずいたのには、こちらも笑いでけいれんが起き、連載の最終回はこのエピソードで決まりだ、と確信した。

 インタビューは結局、自宅でテープに録音した分だけで15時間ほど、それ以外にオフィスで会ったり、電話で長話したりで、軽く20時間は越えたと思う。もちろん、本人から聞いたことだけでは記事はできない。1ヶ月余りの米国滞在中、議会職員や元秘書ら関係者多数に会って証言を採り、連邦議会図書館で大量の資料を集めた。氏の母校、アーカンソー大学にフルブライト研究所があり、そこに氏の議会活動記録、公文書、書簡類がほとんど寄贈されていることを知って、現地に飛んだ。大学図書館のフルブライト文庫には関係文書を入れたファイルボックスが2800箱あり、わずか3日間の滞在ではとても見きれない。めぼしい資料をざっとチェックし、必要なものをコピーして東京に送ってくれるよう頼んだ。そのコピーだけで1000枚近くあった。

まず和文を作成して英訳する試み

 2月末に帰国してから、「履歴書」の体裁に合わせて30回分のプロットを作成し、テープを起こした速記禄と取材メモを基に、直接、日本語で原稿を書いていった。その理由は、日本語と英語では文章構造が異なるため、話の運び方も違ってしまうからだ。たとえば、英語には関係詞という便利なものがあって、次々と補足説明していけるが、それを和訳すると、文章がギクシャクして読みにくくなってしまう。そこで「読みやすい和文」を最優先し、その英訳を自分で作成して同僚の米国人記者にチェックしてもらい、できた英文を夫妻にファックスして、その加筆訂正に従って元の和文を直す、という手順を踏むことにした。幸い、夫妻からの手直しはほとんどなく、いつも「よくできている」「面白い」との誉め言葉が返ってきた。

 5月に連載が始まると、予想をはるかに上回る反響があった。氏の飾らない人柄、ユーモア、そして何よりもその優れた見識と自分の信じるところに従って行動する姿が、読者に深い感銘を与えたに違いない。日本国内だけでなく、米国やアジア諸国からも激励の電話や手紙がたくさん舞い込み、「授業の教材に使いたい」「原文が読みたい」「日本語の読めない友人に英語で読ませたい」「日本語、英語の両方で本にしてほしい」などとの要望が多数寄せられた。

 もちろん出版は最初から予定していた。字数の関係で新聞に掲載できなかった分を生かして分量も2割ほど増えて、しかも英文も付けて9月に本が完成した。氏の著書は『権力の驕り』など6冊あったが、いずれも議会発言や講演を基に編んだ評論集で、自伝はなかった。初めての自伝のタイトルを『権力の驕りに抗して』と決めて、夫妻に提案したら、「最高のネーミングだ」と喜んでもらえた。氏のゴーストライターの仕事はまさに記者冥利に尽きる仕事だった。

 夫妻を招待して都内のホテルで開催した出版記念パーティには、フルブライト奨学生だった各界のリーダーが多数参加し、盛大に祝うことができた。9日間の日本滞在中、私が常にホテルの隣の部屋に泊まって24時間つきっきりで世話した。夫妻の希望で奈良、京都も案内したが、どこでも元留学生が歓迎宴を開いて、氏への感謝の念を表した。

 本の書評もたくさん出たが、どれも非常に好意的で、中でも『週刊朝日』で伊東光晴氏が「英文(やさしい)もついているので英語の勉強にもなる」と評してくれたのはうれしいような、恥ずかしいような。実は「原文」は日本語の方であり、英文も私が書いた以上、私の知らない単語はひとつもないし、むずかしい表現など私に書けるわけがなかったから。 95年2月、フ氏がなくなった。誕生日前なので、享年89歳。もって瞑すべし。夫人が最近、体調を崩して自宅療養していると聞いて、気をもんでいる。来年2002年は日本からのフルブライト留学制度が始まって50周年にあたる。その記念行事を盛大に祝う準備が進んでいるが、夫人にはぜひこの式典に出席してほしいと願っている。