今、高校・大学で「グローバル人材」の育成教育を担当しているのは、たいてい英語教員だ。「国際理解教育は英語教師の役割」という考えが前提になっている。だがそれは大きな間違いではないのか。世界の事情については地理、歴史の教師の方がはるかに詳しいはずだし、国際競争力が問題になる産業・通商問題については社会科の教師の方がよほど適任だろう。情報通信や人工知能(AI)などの目覚ましい技術革新ぶりは理数系教師の方が熟知しているはずだ。国際理解教育は英語に関係なく、どんな教科の教師でも日本語で十分できる。むしろ多くの英語教師は案外、国際理解教育にも「グローバル人材」育成教育に不向きなのではないか、と私は以前から感じている。
この数年、グローバル人材育成教育学会の活動などを通じて全国各地の高校・大学の英語教師と接する機会が多いが、彼ら、彼女らの大半は頭が良く、性格も円満で穏やかな紳士・淑女たちだ。生い立ちを聞けば、そのほとんどが学生時代から成績優秀で品行方正な優等生タイプだとわかる。小学校時代から知的好奇心が旺盛で理解力が高く、中学で「英語好き」になり、その誇りをバネに大学では主に英米文学を学んだ、という人が多い。そして実は、こうした「優等生教師」は概して劣等生に対して冷たく、学内でもいわゆる「問題児」の指導には向いていないように私には思われる。
その理由は、日本の学校の「優等生」のあり方にある、と私は考えている。
日本の初等中等教育は幼稚園から高校まで、何より「事実」という知識=常識=正解を教えることを最重視し、指導原則は断然「いいから黙って、先生の言うことを聞きなさい」だ。その教えに素直に従う優等生が得意なのは「受信」型勉強であり、教師の意図を「忖度」して、それに合う言動をすることだ。教師を困らせるような疑問を発したり、教師の意見に反発するような自己主張(「発信型」)はあまりしない。しかも優等生は自分でも周囲からも「模範生」であることを期待されているので、人前で恥をかくことをできるだけ避けようとして、学校の規則に違反したり軽率な言動に走ったりするのを慎むのが習性になっている。彼らが最も恐れるのは失敗・挫折することであり、あえて困難なことには挑戦しない。自分が理解しにくい言動をする人たちを敬遠し、発想も行動もそれだけ保守的になる、という傾向があるように私には感じられる。
そうして育った優等生が教師になったとき、最も苦労するのは“落ちこぼれ”や“いじめっ子”、さらには気が弱くて、いじめの対象にされやすい“いじめられっ子”、それに自分勝手で規則を守らない問題行動の多い生徒たちの指導であり、概して学業成績の良くない生徒・学生の発想や感覚を内在的に理解しようとすることが苦手な人が多いのではないだろうか。
だが、「グローバル人材」の資質で最も重要なのは、何よりも、(1)いろんな文化背景を持った「弱い人たち」への共感能力、(2)既成事実や常識=正解を「本当にそうなのか」と疑い、批判する力であり、(3)正解のない課題に進んで取り組み、失敗を恐れず、果敢に挑戦する姿勢だ。そうした芽は実は案外「問題児」にこそあるのではないか。
そこで教師には彼らの反抗心、反逆精神をむしろ、将来「グローバル人材」に育つ資質=プラス(長所)と受け止める度量が必要だ。教師が自分と異なる文化背景や体験を持つ「問題児」たちと正面から向き合い、摩擦・衝突を繰り返しながら、内在的な理解を深めることこそが本当の「異文化理解」の基本だし、そうした発想と姿勢を持つことを通して、教師自身が自分を「グローバル人材」に育てることになるはずだ、と私は思っている。
それとおしゃべり好きであること。日本語でも外国語でも、言葉の勉強では自分からどんどん話をする人の方が確実に早く上達する。身近な大学教師たちを見ても、専門分野、専攻領域に関係なく、話し好きな人ほど外国語もよく出来る。むしろ英語教師でない人の方が「自分は別に英語の専門家ではないから」と文法的なことなど気にせず、どんどん英語で話すのに慣れて上達する。英語で授業をするのが苦にならない教師は、まず例外なく、日本語でも話し出したら止まらない人たちだ(私も常にその一人に挙げられているが・・・)。
その点、多くの英語教師は、「英語の専門家」だから話す時には正確で立派な英語で言わなくては、と構えてしまい、とかく人前で英語を話すことを避けようとしがちだ。実は、ほとんどの英語教師は自分の英語力が「それほど、たいしたことない」ことを自覚している。だからこそ、英語教師は「優等生」の殻を破って、臆せずに日本語でも英語でもどんどん発言し、失敗を恐れずに行動することによって、はじめて「グローバル人材」育成教育に貢献できるのではないだろうか。
私は最近、英語教師向けの月刊誌『英語教育』(大修館)に頼まれて、今年の4月号から9月号まで「グローバル人材の条件」を6回連載したが、そこできわめて面白い体験をした。連載の基調は、読者である英語教師たちを常に強く意識して、英語教師の陥りやすい問題点を指摘しながら、主張のアクセントは「英語教師よ、がんばれ」ということにあった。
ところが、その担当編集者からは、毎回のように「読者が不愉快に思いそうなので、この部分の表現を和らげるか、削ってほしい」とか「そういう英語教師がいることは事実だろうけれど、読者の反発を招くのは困るので」と、文言を書き直すように求めてきた。日本経済新聞記者32年間、大学教授12年間の中で、いろんな外部の雑誌に数えきれないほど寄稿してきたが、事実誤認の訂正ではなく、文章表現について細かな書き直しを求められたのは事実上、初めてのように思う。
なぜ編集部がこんなに気を遣うのか、と最初は首を傾げた。そして気づいたことは、英語教師はとてもプライドが高く、その分、自分が批判されることに慣れておらず、批判を「非難・中傷」と受け止めて、拒否反応を示すからではないか。それを熟知している編集者だからこそ、読者の機嫌を損ねてはいけない、と批判的な表現に神経をとがらせているのではないか、ということだった。
しかし、そういう批判的な意見に反発することこそが実は「異文化理解」を拒む「優等生」=日本人の中の多くのプライドの高いエリート集団の体質ではないだろうか。そして、そういう姿勢こそ「グローバル人材」が最も気を付けなければならない問題であることに「優等生教師」たちはぜひ気づいてほしい、と私は願っている。
繰り返すが、「グローバル人材」に最も重要な資質は、異論・批判を自分の考えを練り直す貴重な提言として歓迎し、お互いに合意できる地点がどこかを探り合う共同作業ができることだ。
それこそが「異文化理解」の基本となる「異文化対立(衝突)」というべきもので、その衝突・対立に耐えられる力を鍛え、蓄えることこそが、今、最も求められる資質だと私は考えている。政府の言うこと、教育委員会の言うことに唯々諾々と従うことではなく、現場の実感を基にして、批判すべきは批判し、生徒・学生にとって最も良い教育が何なのかを常に自問自答し、それにふさわしい自分の答を見出す努力をし続けることこそが重要なのではないか。
それは“America First”を強調して他人種を蔑視し、排他的・独善的な一国至上主義を唱える大統領と、それを熱烈に支持する”White supremacists”がはびこる英語国の実態を見て、自分は何のために英語を教え、生徒・学生たちに英語を通して何を学ぶべきかを指導するのかという、自分の使命感を強く再認識することにつながるはずだ。
そもそも、なぜ日本人が英語を勉強する必要があるのだろうか。私は日本人全員が等しく学ぶ必要など全くないと考えている。英語など知らなくても生活にも仕事にも困らない、と思う人には英語の勉強など時間の無駄だろう。
ただし英語がわかれば視野が飛躍的に広がるし、自分の関心のあるテーマについて歴史的な背景も世界の最新の動向もわかり、その中で自分が何をすべきかを考えることができる。英語力を高めることが何よりも多種多様な人間に対する共感力・理解力を深め、「国際理解」力を高めることになることを生徒・学生にはしっかり伝えてほしい。同時にそれが自分の日本理解を深め、日本語力を高めることになる、ということもしっかりと自覚させてほしい。それこそが教養の基本であり、英語教育とは教養教育に他ならない。
最後に理想の英語教師とはどんな人かを考えたい。それはまず、自分の専攻分野、国際理解教育の専門家として「一流のプロ」を目指す人だろう。私が中学、高校、大学時代に出会った、尊敬すべき英語教師たちの姿を思い出しながら、強くそう思う。どんな職業の人でも「プロ」として、その世界で最先端、最高のものに向かって挑戦している姿を見ると、私たちは素直に感激し、自分も頑張らなくては、と鼓舞されるものだ。最初から日本一、世界一を目指す意欲もなく、努力もしない人には誰も感動などしない。英語教師もまず、「一流のプロ」=「グローバル人材」を目指してほしい。そのためにこそ生徒一人ひとりの個性を見抜き、それぞれの知的好奇心を刺激しながら、志を高く持って挑戦する楽しさを味わうように促す。それで初めて生徒・学生たちに「本当に優れた教師」として信頼され、尊敬されるのではないだろうか。英語教育を通して人間教育をするーーそれが英語教師の本来あるべき姿だと私は考えている。
