とにかく大変な「英語ブーム」である。都会の電車内の広告には英会話学校の広告が目立つ。書店を覗けば、英会話速習法が大量に出ている。それも「小学校から英語が必修になった」ということで、幼児用、小学生用が次々に出ている。
文部科学省の「英語が使える日本人の育成」政策によって、初等中等教育の学習指導要領が改訂された結果、全国の公立小学校では来年度から小学3,4年生から「外国語活動」(=英語に慣れる)が導入され、5,6年生には英語がこれまでの「外国語活動」から「教科」に”格上げ“され、文科省の検定教科書を使って「話す・聴く・読む・書く」の4技能の成績評価がつけられることになった。戦後の教育改革で中学から習い始めた英語(教科)を小学校小学5年に前倒しし、さらにその導入(動機づけ)を円滑にしようと、3年生から「英語に慣れ親しむ」ことが義務付けられたわけだ。
小学校で英語を教えることについては英語教育専門家の間でも賛否両論、意見が分かれているが、私の見るところ、反対派の方が論理的に筋が通っていて、多数派だ。
だが、文科省は①「世界的な趨勢=アジア諸国は皆小学1年生段階から英語を教えている」、②「社会的な要請=グローバル化時代には英語ができなくては仕事ができないし、生き残れない、という主に経済界の判断」、③「世論の支持=親は自分の子どもは英語がうまくなって活躍してほしいと願い、マスコミもそれを押している」、の3点を背景に、不退転の決意で強行した。その最大の理由は「語学を学ぶのには早ければ早いほど良い」という説明だ。最近は言語中枢神経の発達と絡めて脳科学の分野から「早いほど良い」説が広まっている。
だがここで注意してほしいのは、幼児の段階で母語を覚えるのには「早いほど良い」ということに異論はないが、外国語(第2言語)の場合も同じことが言えるのか、という点だ。実は学者・専門家のほとんどは「根拠がない」と慎重で、中には、はっきりと「思い込みによる幻想」だと批判する人も少なくない。
私も昔から「英語の習得は早い方が良い」というのはウソだ、と思っている。
そもそも日本社会で、日本人の子どもが幼児・小学生の段階から外国語(第2言語)を覚えることにどういう意味があるのだろうか。家庭でも地域社会でも使っていない言葉(英単語、短い英文)を覚えても、使わなければすぐに忘れるだけであり、使いもしない言葉を全国一律に学校で強制的に覚えさせるのは記憶力を鍛える訓練になるかもしれないが(私はそれも疑っているが)、文科省の唱える「国際理解を高める」ことに役立つとはとても思えない。
周りにいろんな言語を話す人たちが混在していて(例えばヨーロッパのように)、日常的に数言語を話すことが慣習化しているところでは、否応なく母語も第2、第3言語も覚えなければ生活できないだろう。都市部では、たいていの人が毎日数時間は母語以外の言葉に接し、自分も使わなければならないという環境にあるからだ。しかもその場合の複数言語は、言わば近隣の親戚のような「西欧語族」という言語であり、お互いに習得するのにそれほど困難な言葉ではない。欧州に数か国語を話す人たちが大量にいても何も不思議ではない。
英語を含めて欧州語を母語とする人たちが他の欧州語を学ぶのに初級レベルの読み書きができるようになるのに100時間程度かかるとすれば、彼らが日本語、韓国語、中国語、アラビア語を学ぶにはその5~10倍の時間がかかる、と言われている。逆もまた真なり。日本人が西欧語を学ぶのは初級レベルでも500~1000時間はかかるのが当たり前、ということなのだ。
さて日本の小学校の英語の授業はどうかと言えば、週に1時限(45~50分)か2時限、というところだ。これは1年間かけてもせいぜい35時間程度、週2回でも年に70~80時間にしかならない。これで外国語に「慣れ親しもう」というのは一体何をどこまで期待しているのか。小学生でもいろんな教科や課外活動、塾などのお稽古事や家事の手伝いなどで忙しい。たとえ覚えるのが早くても、忘れるのも早い。週に1時間習ったところで、すぐに忘れてしまうのが当然だ。
この春、小学校教員たちの英語教育研修会を覗いたところ、講師に招かれた文科省の教科調査官が「言葉を覚えるには何よりもプラクティス、プラクティス、練習です。授業時間以外でも、家庭でも、しっかり練習するように指導してください」と説いているのには驚き、あきれてしまった。そんな宿題を課せば課すほど、関心のない子たちは反発し、「英語に慣れ親しむ」どころか「英語嫌い」を増やすだけではないのか、と。
しかも「早ければ早いほど良い」というのは、子どもは相手の発音を素直に聴き取り、発音を真似しやすいから、という程度のことにとどまる。海外駐在員の子どもが欧米に住んで数週間で現地の子どもたちと同じような発音で会話ができるようになる、というのはよく聞く話だ。ただしそれはあくまでも接触する時間の多い現地校の教師や生徒の口真似をしているだけのことで、「日常会話」のレベルで「ペラペラ」と話せるようになった、といっても、決して中身のある話が出来るようになる、ということではない。アメリカで生まれ育ったネイティブの子どもたちが日常会話を「ペラペラ」と話していても、それは知識を吸収して自分の頭で理解し、自分の考えを発表したりレポートに書いたりできる、という「学習能力」の高い低いとは別の話であることに気づくべきだ。
ところが日本人の大半を占める「英語が苦手」「英語嫌い」の人たちは、「ネイティブに近い発音ができる=英語ができる=頭がいい」という連鎖イメージを強く持っている。それは全くの大きな誤解であり、愚かな幻想と言っていい。ネイティブ並みの「きれいな発音」は単なる「慣れ」の問題であり、頭の良し悪しとは関係ない。ネイティブにも頭の悪い人はたくさんいるし、ネイティブ並みの発音ができる日本人で頭の悪い人もたくさんいる。また親たちの多くは、「小学校から英語に慣れていれば、中学・高校の英語もよくできるようになるはずだ」と思い込んでいる。これも実は様々な比較調査結果で否定されている。
小学校から英語を学んだ生徒集団と、中学で初めて英語を勉強した生徒集団の英語力比較調査では、中1段階でこそ「既習組」の成績がいいが、中3段階ではほとんど差がなくなり、高校段階では全く関係ない、ということが判明している。つまり大学受験時点では小学校から英語を学んだ生徒も中学から勉強した生徒も、グループとしての差はなく、あるのは個人差であり、中学・高校でどれだけ英語が好きになって、自分から積極的に英語に取り組んだか、ということで英語力に差が出ているだけなのだ。「小学校から学んだ方が有利」という説もまた誤解でしかない。それはまた幼児の段階から英会話教室に通った子どもも、小学生で英語塾に通った子どももほとんど関係ない。要はいつから勉強を始めようと、母語である日本語での論理的思考力がしっかりとついてきた中学段階以降に夢中になって英語を勉強しているかどうかにかかっているのだ。
一時期、「早ければ早いほど良い」根拠として「臨界期」説がクローズアップされた。俗に「4歳から10歳」を言語習得の臨界期と広く言われているが、それを提唱した欧米の学者たちの説には裏付けるデータが不十分で、最近の脳科学研究者の間でも「言語習得に臨界期が存在する」という主張は支持されていない。言語教育学者のバトラー後藤裕子は『英語学習は早いほど良いのか』(岩波新書、2015)で、内外の調査研究を丹念に跡付けた結果、「年齢による制約は存在するが、臨界期のような特別な期間は存在しない」と結論付け、さらに「複雑な言語知識や言語活動は、年齢の制約を受けにくい可能性がある」と慎重に考えている。つまり外国語の習得は年齢に関係なく、成人してからでも本人の持続的な意欲と情熱、費やす時間によって大きく左右される、ということだ。
周りの人たちを見ていて痛感することだが、英語ができない親ほど、子どもに早くから英語を教えたがる。親の英語コンプレックスの裏返しで、とりわけ、自分の下手な発音、いい加減な知識で教えたがる。お店や電車、飛行機の中で、若い母親が2~4歳くらいの幼児に「はい、数を数えてみましょうね、ワン、ツー、スリー・・・」と得意になって教えて、その子が母親の口真似で大きな声で復唱させているのを時々、見かけて、苦笑してしまう。これは子供に変な発音、和製英語も交えた間違った表現を口伝えに教える典型的な「悪い方法」であり、これでこの子が近い将来、親に反発して「英語嫌い」にならなければいいが、と暗い気持ちになってしまう。
幼児教育、児童発達学などの専門家たちの意見を総合すると、幼児から小学生段階で最も大事なことは外国語を習わせることではなく、大いに遊び、手足を動かして運動したり、絵を描いたり音楽を聴いたり、歌を歌ったりなど、好きで夢中になれるものを持つことだという。それとできるだけ親や兄弟、友だちと話しをすること。早くから年齢の違う子どもたちと身近に接して集団生活をすることが社会性を高め、ケンカをしたり、話をする中で言葉をたくさん覚え、知識も増えていくことは児童発達学者たちが立証している。
子どもは好奇心の塊で、「なぜ?」「どうして?」を連発する。その説明を聞いても、さらに疑問がわき、知識欲を刺激されて、身の回りのすべてはFull of wonder=What a wonderful world!に気づく。それには回りの大人も一緒になって考えると良い。NHKテレビの人気番組で「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と5歳のチコチャンに叱られないためにも。ただし、チコチャンたち幼児・小学校段階の子どもは、もっとおおらかに「ボーっと生きている」時間を持つことがきわめて大事だということも、私たち大人が忘れてはならないことだろう。自分が幼稚園・小学校のころ、いかに「ボーっ」としている時間が楽しかったか、懐かしく思い出せばいい。
