実現できなかったプロジェクト

前号で紹介したように、私の現在の仕事は、国際交流のさまざまなプロジェクトをプロデュースすることだが、もちろん全部が全部、うまくいくわけでは決してない。滑り出しは順調だったが、実現目前で潰えたものもいくつもある。

例えば、私が営業推進本部に移って間もなく手がけた仕事に、南アフリカ関係のものが2つあった。一つは南アに日本から投資ミッションを派遣する企画で、もう一つは南ア出身のゴルフ界のスーパースター、ゲーリー・プレーヤー氏を「私の履歴書」に登場させる企画だった。

南アが英国の支配から脱して、マンデラ政権が誕生したのが1994年。翌年、マンデラ大統領が来日した折、新生南アの経済セミナーを日経新聞社が開催して好評だったのがきっかけで、南ア政府側から「ぜひ日本企業を率いて投資調査団を送ってきてほしい」との強い要望があった。それに応えられるかどうか、現地の実情はどうかを調べるため、96年夏、私が2週間、現地を訪ねた。同時に、プレーヤー氏に会って、私が氏のゴーストライターを務めることに了解を得て、取材を始める目的もあった。

人種差別のない「虹の国」づくりの実験

多くの日本人にとって、南アというのはきわめて遠く、なじみの薄い異郷だろう。東南アジア経由の南回り便でも20時間くらいかかるし、欧州経由では乗り継ぎ時間を含めて25時間くらいかかってしまう。日本からの進出企業は60社程度で、住んでいる日本人も800人くらいしかいないという。

滞在中、何十人もの日本人に会ったが、ほとんどの人が「治安は良くないが、実は非常に住みやすい」とうなずいていた。いわく「花と緑の美しい大自然の楽園」「一年中、快適な気候で、ワインも食事も美味い」「途上国並みの物価水準、コストで、先進国並みのインフラと恵まれた生活がエンジョイできる」――。

たしかに、観光名所がたくさんあり、ホテルもレストランもショッピング・モールもきれいで立派だし、交通網も通信網も整備されている。ただ、どこを訪ねても気になるのが、繁華街の路地や広場にたむろする大量の失業者、浮浪者の群れであり、町外れに固まっている粗末な小屋の群れだ。そうしたゲットー(貧民窟)のほとんどが黒人居住区だった。

南アの人口は4300万人。そのうち黒人が75%を占め、白人は14%、カラード(混血)9%、インド・アジア系2%となっている。政府統計の失業率はこの数年、20-25%とされているが、人種別の失業率は最近でも黒人が43%、カラードが21%、インド・アジア系が12%、白人が5%と、人種間格差が激しい。一人あたりのGNPは99年時点でも3160米ドルしかない。先進国並みの生活をしているのは人口の15%に満たず、60%近くはまだ途上国並みの貧困生活にあえいでいるという。

それだけに南ア政府が経済発展のために外資導入に力を入れ、とりわけ日本企業の現地生産を促して、雇用創出につなげたいという意欲はよくわかった。どの省庁、経済団体を訪ねても、新政権下で抜擢された非白人の局長、部長、理事たちが異口同音に「もっと日本人にたくさん来てもらいたい」と語っていた。

マンデラ大統領は就任以来、「黒人による、黒人のための国」ではなく「すべての人種、民族が協力し合う平和な虹の国」を目指す、と提唱してきた。偉大なる実験でもある。

日本に市民警察のあり方を学ぶ

こうした貧困と犯罪の悪循環が、国づくりにあたっての深刻な問題になっていた。

滞在した最初の3日間、ヨハネスブルグの中心街にあるカールトン・ホテルに泊まったが、会う人ごとに「危険だから早く郊外のホテルに移れ」と“警告”され続けた。かつては5つ星(最高級)のホテルだったが、周辺一帯が失業者、ホームレスの溜まり場となり、路上の引ったくりや強盗事件がひんぱんに発生していた。昼間でも一人で出歩こうとすると、マネージャーが真顔で「護衛をつけようか」と聞いてきた。「大丈夫だから」と何度か一人で周辺を散歩し、買い物をし、映画も見たが、現地の人たちからは「無事だったのは運がよかったとしか言いようがない」とあきれられた。その高層ホテルも昨年、ついに営業不振で閉鎖したという。

私の滞在期間中も、地元の新聞、テレビでは毎日のように、欧州系企業の幹部が身代金目当てで誘拐されたり、支店長宅に強盗が入ったりする事件が大きく報道されていた。

警察の能力を現地の人に聞くと、警官が交通違反の目こぼしをする代わりに金品を要求するのはごく普通のことという。警官が麻薬や銃の密売組織に絡んでいたり、新車の窃盗犯グループと組んで手引きしていた事件まであった。これでは、市民はとても安心して生活できないし、外国企業の誘致もむずかしいのではないか。――そんな疑問を、帰国直前にようやく会えたムベキ副大統領にぶつけた。

ムベキ氏は当時、54歳。マンデラ大統領が「わが息子」と全幅の信頼を置き、99年5月に大統領を引退する際に後継者に推すことが事実上、決まっていた。会ったのは土曜の夕方。週日の激務を終えて、首都プレトリアの公邸で、民族衣装の普段着に寛いだところで、一時間たっぷり、率直に話してくれた。

「こんなに警官の汚職や不祥事が多いと、国民も警察を信頼できないのではないか」

「残念ながら、その通りだ。たしかに組織的な暴力犯罪に警官が関与していた事例も少なくない。そこで今、警察組織内に腐敗防止策を着々と導入しているところだ」

「腐敗の原因は何だと思うか」

「わが国では旧政権時代まで、警察といえば政治犯、つまり民主的活動家を厳しく取り締まる“政治警察”“思想警察”が中心であり、国民の生活を反社会的な犯罪から守る“市民警察”がほとんど軽視されていて、育たなかったことが原因だ。長い間、盗聴や密告で思想犯を逮捕し、拷問にかけて自白を強要する高圧的なやり方で通してきたから、警察はこれまで、むしろ市民の敵と見られていた。だがこれからは警察が市民の味方にならなければならないし、そうすることによって初めて、市民に信頼され、犯罪の摘発、捜査に協力してもらえるようになるだろう」

「日本の警察庁も捜査技術のノウハウの指導や,警察官の研修などで積極的に協力しているはずだが」

「よく承知している。日本から今まさに市民警察のあり方を学んでいるわけで、その成果が上がることを心から願っている」

プレーヤー氏は日本びいきの慈善事業家

さて、もう一つの目的であるG・プレーヤー氏の件は、快調な滑り出しだった。本人も、マネージャーを務める息子のマークもたいへん好意的で、必要な資料は何でも用意する、と約束してくれた。

プレーヤー氏はヨハネスブルグの貧しい鉱夫の家に生まれ、高卒でプロ・ゴルファーになり、世界の主要トーナメントで150勝以上している。特に59年から78年にかけて全英オープン、マスターズ、全米オープン、全米プロの4大トーナメントに9回優勝し、米国のアーノルド・パーマー、ジャック・ニクラウスと並んで史上最強のビッグ3と称されている。

96年当時で60歳。まだ現役で、年間25週、つまり1年の半分は国外を回って、主要なゲームに出場していた。さらに世界各地に自分が設計したゴルフ場が140箇所以上あり、その調査や点検にもひんぱんに出かける。だから故郷の南アにいるのは年に数週間、それも国内の各種ゲームやチャリティー・イベントに参加する約束が目白押しで、ゆっくり家族団欒というのはクリスマスなど年に数日、ということだった。

自宅はヨハネスブルグ郊外の牧場地帯にあり、広大な敷地内に保育施設と小中学校を開設している。生徒は近隣の黒人家庭の子供たちばかりで、約400人。「南アの未来を担う子供たちに優れた教育を」「ベスト・スクール・イン・アフリカ」をモットーに、授業料はほとんど取らず、給食を無料で出し、公立学校より優秀な教職員を雇って指導している。生徒のほとんどが母子家庭(誰が父親かわからない、あるいは父親が蒸発して行方不明)か、貧乏人の子沢山で、月収が数千円しかなく、家族全員が満足に食事もできない家庭という。

「この学校の運営資金をまかなうためにチャリティ・ゴルフをするのも私の大事な仕事」とプレーヤー氏は言い、教職員は「ここの卒業生たちは特に礼儀正しく、公立高校に常に上位の成績で合格している」と誇らしげに胸を張った。

プレーヤー氏はたいへんな日本びいきでもある。ゴルフの基本を聞くと、即座に「ガマン(我慢)」「ニンタイ(忍耐)」という言葉が返ってきた。「何事も決して傲慢にならず、日本人のように謙虚であるべき」「食事は魚と野菜が中心の日本食が最高」と日本賛美が次々に出てくる。

南ア中央部の町、コールスバーグの空港から3百キロ離れた大平原に、プレーヤー氏の牧場がある。荒野にオレンジ川が曲がりくねって流れる周辺を6000ヘクタール、360度見渡す限りが氏の土地だ。ここに120頭のサラブレッドを飼っている。「地球上に競走馬ほど美しく洗練された動物はいない」と言い、年に何回か、ここで馬の調教ぶりを見るのを何よりの楽しみにしている。

血統のいい種馬を持ち、子馬を欧米、アジア諸国に売っているが、そうした子馬に「ハヤテ(疾風)」「キタカゼ(北風)」などと日本名を付けている。その中に「モンダイナイ(問題ない)」がいたのには、笑ってしまった。氏は「ノー・プロブレム、という名前だから、きっと連戦連勝の名馬になる」と予言していたが、その結果は、まだ聞いていない。

予期せぬ出来事続きで、2件とも無期延期に

帰国後、あらためて外務省、通産省、貿易振興会(ジェトロ)、経団連、南ア関係団体などの幹部たちと何度も打ち合わせながら、投資ミッションの内容を詰めていった。ミッションは日経新聞社と南ア大使館が共催し、関係省庁が後援してくれることで固まり、97年1月に10日間、私が事務局長役として引率することで参加企業を募った。大手、中堅、自営業者など十人ほど参加するメドがついて、いよいよ出発の準備をする時期になって、異変が起きた。北海道拓殖銀行、山一証券と、大型破産が相次いで、「とても海外出張している余裕がない」とドタキャンが相次いだ。タイミングが悪かった、と無期延期せざるを得なくなった。

一方、プレーヤー氏の「履歴書」についても、本格的に取材、執筆する用意が整ったところで、経営陣から「待った」がかかった。当時は「履歴書」欄に外国人を登場させるのは年に一回を想定していた。その候補の一人だった中国人がガンで余命いくばくもないとわかって、急いでそちらを先にやることになったからだ。では丸一年先延ばしか、と思っていたら、その次の別の候補も優先して掲載する事情があり、「プレーヤー氏はまだ若いし、現役で活躍しているからもう少し待てるだろう」との判断がでた。そのうちに、マンデラ大統領に登場してもらえる話が急浮上し、別の記者が担当になった。これで同じ南アからのプレーヤー氏は当面延期となり、掲載するにはあらためて、一から取材し直す見込みとなった。どちらも残念だが、仕方ない。いずれまた、私がその機会に恵まれることを願いながら、今もなお時折、遥かな国の楽しかった体験を思い出している。