2002年11月、日本経済新聞の「私の履歴書」に米IBM会長のルイス・ガースナー氏が登場した。その取材、執筆を担当したのが私で、前年の秋に同じ欄でジャック・ウェルチGE前会長が登場した時と同じようにゴーストライターを務めた。ただし、今回の方がよほど取材に苦労した。ウェルチ氏の時は会えばきさくに、どんどん話をしてくれた。だが、ガースナー氏は極端なまでに私的なことを語りたがらない人で、若いころの個人的な体験、失敗談、家族のことなどを聞き出すのに四苦八苦した。ともに戦後の米国産業史の中で屈指の名経営者と呼ばれ、特に80年代をリードしたのがウェルチ氏、90年代を代表するのがガースナー氏、と高く評価されてきた。その二人を取材する幸運に恵まれて、「アメリカの最強のCEO(最高経営責任者)」二人をさまざまな角度から比較してみたい。
IBMを再生させた男
ガースナー氏が2002年末にIBM会長を辞職すると正式に発表したのが同年春。彼は米国の代表的な食品メーカー、RJRナビスコ社の会長だった1993年春、IBMが深刻な経営危機に陥っていた時に「再建請負人」としてスカウトされ、それを数年間でみごとに果たした人物だ。「名経営者」と称賛され、本人が望めばこの先もまだ順調にIBM会長を続けていられたはずなのに、「私がやるべき仕事がうまくできた今、あとはIBM生え抜きの優れた後継者に任せる」とあっさり引退を表明した。
その引退を機に「IBMをいかに再生させたか」を本にまとめて出版するとの情報に、日経新聞社がすぐさま、その日本語版翻訳権を手に入れると同時に、その本をベースにして引退直前の11月に半生を「私の履歴書」に連載することで本人の合意を取り付けた。ウェルチ氏の時も本人の自伝の日本語版を日経が出版するのにあわせて、自伝を下敷きに「私の履歴書」を書いた(その内幕話は本誌連載第9回=2002年春号に)。それによって自伝の日本語版は30万部を超すベストセラーとなり、出版局を大喜びさせた。そこで今回も同じ方式で、と「柳の下の2匹目のどじょう」をねらったものだ。
だがガースナー氏が夏に書き上げた本は文字通り「IBM再生物語」であって、自伝ではない。氏は93年から9年間に「病める巨像」をどう治癒したかということを詳しく説明しているが、本人の個人的な話はほとんどない。聞けば、本人は元々、自分のこと、家族のことを会社でもマスコミに対しても、全くと言っていいほど話さない人で、部下や記者たちから趣味や若いころのことなどを聞かれる嫌い、そうした話題になると無視するか、拒否するという。
それでは「私の履歴書」はできない。本人がどこでどう生まれ育ち、どんな人生を歩んできたかという自伝なのだから。そこでIBMのニューヨーク本社と何度もEメールでやりとりし、取材の段取りを決めていった。最初は「超多忙」を理由に、本社で二回、それも45分ずつならOK、という返事だった。とんでもない、そんな短時間で60年の半生を聞くことはとても無理で、満足な取材ができない、と押し戻した。とにかく時期的に間に合わなくなるから、と設定を急いでもらい、とりあえず二回は会える約束だけを取り付けて、9月中旬にニューヨークに飛んだ。
気むずかしくて非社交的
マンハッタンに到着してからさらにやりとりを続け、ようやく9月16日と17日にそれぞれ1時間半ずつとる、ということで合意した。
IBM本社はマンハッタンから車で北へ1時間ちょっと。緑豊かな丘陵地帯に広大な敷地を取り、森を切り開いたところにある瀟洒な4階建てビルだった。招き入れられたのは会長室に続く小会議室。普段、ここで経営幹部たちと打ち合わせをするという。
時間ぴったりに姿を現したガースナー氏は、握手してもあまり笑顔を見せない。円卓に差し向かいに座って、広報部長が同席しただけ。最初に「自伝を書くのだから」と趣旨を説明し、1回目のインタビューでは生まれてから23歳でハーバード・ビジネススクールを卒業するまで、2回目には経営コンサルタント会社、マッキンゼーに入社してからアメリカン・エクスプレス社長、RJRナビスコ会長と移り、51歳でIBMにスカウトされるまでの職業生活時代について聞く、ということで了解してもらった(このことはもちろん事前に文書メモでも渡してある)。
それで順次、聞いていったが、ガースナー氏は「取っつきにくい」「気むずかしい」という評判通り、ちっとも愛想が良くない。ウェルチ氏が社交的で、初対面でも軽口をたたいてジョークを言い、相手をたちまち引きつけてしまう魅力にあふれているのとは対照的で、ニコリともせず、無駄口はたたかない、余計なことはしゃべらない、という感じだ。とりわけ私生活については「それには答える必要はないだろう」「言いたくない」の連続。最初は両親と3人の兄弟の名前も言い渋っていた。
幼い時にどんな子供だったのかを聞くと「わからない。ごく平凡だった」だけ。小中学校の名前も「忘れた」。家族のそれぞれの性格を聞いても「よかった」の一言で終わり。どうよかったか、重ねてたずねても抽象的な表現が返ってくるだけで、具体的な話がなかなか出てこない。親子ゲンカや兄弟ゲンカはしなかったのかなどと突っ込んでも、「皆、仲が良かった」と優等生的な答えしか返ってこなかった。
家族については取り付く島もなかったが、高校、大学時代のことになると、ようやく表情も柔らかくなり、話も具体的になってきた。「その体験から学んだことは3つある。第一に・・・、第二に・・・」と即座によどみなく、巧みに要約する。あとで録音テープを起こしても、ほぼそのまま簡潔な文章になっている部分が多かった。実に頭の回転の速い人だな、と感心させられた。制限時間1分前になると、「では次回に」とサッと立ち上がり、会長室に消えた。
爆弾テロや誘拐を警戒して
2回目は本人もうち解けてきた感じで、質問を突っぱねることもなく、ビジネスマン生活を要領よく振り返ってくれた。だが結婚や妻のこと、子供のことに触れると、とたんに不機嫌になり、「説明するからテープを止めてくれ」と言う。
そして実は、IBM会長は米国の軍事システムから宇宙開発、金融などあらゆるシステムを支えている国策企業のトップであるためか、横行する爆弾魔やテロリスト、誘拐魔たちの標的リストのトップに挙げられていて、警察当局からも家族の誘拐やテロ行為などに極力注意するよう警告を受けているという。大統領や政府高官なら常に警官が身辺警護をしてくれるが、民間企業のトップは自分で警備員を手配しなければならない。家族の身の安全を第一に考えるから、妻子の名前も、どこに住んで、何をしているのかも他人に知られたくないし、とりわけマスコミに書かれたくないのだという。自宅を訪ねることも、家族から話を聞くことも、私生活の取材はすべて「ノー」だった。
もともと私的なことは人に話したがらない性格だったのが、IBM会長となってますます公私を厳しく分け、マスコミ嫌いになったということらしい。
その点、ウェルチ氏はマスコミの取材にも時間の許す限り快く応じ、「ゆっくり話せるから」と夏休みの別荘に私を招いてくれた。何とも開放的なのだ。夫人の話を聞くのも「自由にどうぞ」で、一緒に食事に誘ってもくれた。秋には日経の招待で夫婦で来日し、仲の良いところを見せていたが、その半年後の2002年春にはウェルチ氏の不倫が発覚して、夫人から離婚訴訟を起こされて今も係争中なのは何とも皮肉な話だ。
ガースナー氏にウェルチ評を聞いても「私は他人をあれこれ評することはしない」とピシャリ。同じカトリック教徒だが、ウェルチ氏が常に陽気で社交的で、離婚騒動中の今もマンハッタンの高級クラブに美女を何人も引き連れて深夜まで徘徊しているのに対し、ガースナー氏は仕事が終わればさっさと自宅に戻り、夜はもっぱら読書。歴史書から科学書、冒険小説まで幅広く楽しむ。午後10時過ぎには就寝して午前5時半に起き、6時45分に家を出て、7時には会社で仕事を始める朝型人間なのだ。
1に家族、2に教会、3に仕事の人生
ともあれ、ガースナー氏は2回目のインタビューが終わる時に、自分から「あと一回OKだ。時間を都合するから2日後にやろう」と言ってくれた。ただし1時間。もちろん、こちらもOK。彼の人生観、日本観、引退後の計画などまだ聞くことがたくさん残っていた。その3回目に、常に“モーレツ仕事人間”と評されてきた氏だが、自分の人生で最も大切と考えているものは何かを聞くと、「第一に家族、第二に教会、第三が仕事」と即座に返ってきた。子供の時から日曜日に教会に行くことを欠かさず、今も教会のボランティア活動に率先して参加している。IBM引退後についても、仕事とボランティア活動と家族との時間に3分割して過ごしたいという。
超一流企業のトップともなれば、相当な高額所得者だが、10年以上前から自分の基金をつくって収入の大半はそちらに入れ、教育やがん治療の研究に高額の寄付を続けている。典型的なミドルクラス出身、と自認している通り、東部の古き良き時代の伝統である自立する志に富み、社会貢献する姿勢を堅持しているアメリカ人がここにいる、と実感できた。
「実はたいへん心優しい人。友人を大切にし、自らを厳しく律することのできる人」というガースナー評も聞いていたが、これだな、とわかった。同席していた広報部長は「私も全く知らない話がたくさん出てきて驚いた。今まで同じ記者に2度以上単独インタビューに応じたことはない。最もぜいたくなインタビューだ」としきりにうなずいていた。
もちろん、本人の話だけでは不十分だ。生まれ故郷のロングアイランドを訪ね、車で町中を見て回り、町の図書館で幼少年時代の町の様子を調べた。隣が高級住宅地で知られるガーデンシティで、町外れにリンドバーグが大西洋横断飛行に飛び立った飛行場があったことを発見した。出身高校であるカトリック系の男子校を訪ねると(予約もしなかったので体よく追い出されたが)、立派な校舎で今も地元の名門校であること、ガースナー氏が早くから奨学金を支給し、同校の強力な支援者であることなどもわかった。
ニューヨーク空港から16人乗りの小型プロペラ機で1時間強飛んで、東北部のニューハンプシャー州にあるダートマス・カレッジも訪問した。森の中の川に沿ったキャンパスを歩き回り、所蔵品豊かな美術館を見て、図書館地下の大閲覧室に私の好きなメキシコの壁画家、オロスコの大きな作品があることに驚いた。そんな自分の発見を交えて、土地勘をつけ、場所のイメージがわかり、「履歴書」がうまくできることを確信した。
ウェルチ氏との共通点
ガースナー氏はウェルチ氏と性格的には相当異なるが、経営者としての考え方と行動には驚くほど共通するところが多い、というのが二人を取材しての実感だ。
まず仕事に対する強烈な情熱。自分がやる以上、絶対に成功させよう、競争相手に勝とう、という意欲であり、果敢に挑戦する姿勢だ。ビジネスはゲームであり、勝負である以上、勝ちたい、勝ち組に入りたいと思わなければ、まず成功することはない。「どうせたいしたことはできない」「われわれにはこれだけ不利な条件がある」と悲観し、グチをこぼす人間、組織では勝てるわけがない−−二人が一致して強調していたことだ。
そして勝つための条件は手持ちの資産、とりわけ人材をフルに活用していかに組織を活性化させるかにかかっている。二人とも特に現場指揮官となるリーダーたちの育成に大変な情熱を注いでいた。
さらに経営哲学の基本として、顧客が何を求めているのか、業界がどういう変化を起こしているのか、5年先、10年先にどんな市場になっているかを描いて、そこで自分の会社がどんな位置を占めていると想定するかを考えていることだ。顧客第一主義に徹して、業界、市場の長期展望を持ち、今、何をすべきかを考える。時代の急激な変化に合わせて、商品もビジネスの仕方も思い切ってどんどん変えていく。二人とも「意思決定が遅れて失敗するよりも、拙速で失敗する方がはるかに有益」と言う“スピード経営”信者だ。
そうした「変化への対応」で日本企業のトップになかなかできないのが、前任者の敷いた路線を否定することだ。日本の大企業では年功序列主義組織の中で、下から徐々に経験を積み、上から引き立てられ、ある時期から「社長候補」と自他ともに認める形でトップになった人がほとんどだ。そうしたCEOは前任者の決定を覆すことがきわめて難しい。それは自分が長年仕えた主君を否定し、裏切ることになるいからであり、そういう“逆臣”でないからこそ、前任者に信頼され、「後継者」に指名されたからだ。
だが、そうした「伝統の継承」を重んじていては会社がダメになる−−IBMに落下傘で外から来たガースナー氏はもちろん、GEの生え抜きだったウェルチ氏もそう考えて、果敢に大胆な路線変更を決断した。そこに日本の大企業経営者が学ぶところが多いのではないだろうか。
最後に、ガースナー氏の年齢は今、60歳。「悠悠自適」の生活を送るには明らかに早過ぎる。ウェルチ氏が2001年秋に20年間務めたGE会長を引退したのが65歳。これまた日本の大手企業トップがたいてい60代後半から70代であることから比べれば、2人ともいかにも若い。アメリカの大企業のCEO(最高経営責任者)で40代、50代というのは少しも珍しくない。逆に65歳以上、というのが珍しいくらいだ。
これには米国のCEOはトップダウンで決断を下して陣頭指揮する最高司令官として大変な精神的緊張感を持続させていなければならず、しかも早朝から深夜まで分刻みのスケジュールをこなさなければならないので、精神的にも肉体的にもタフでなければ務まらない、柔軟かつ機敏に判断し、行動するには若い方がいいという事情があるだろう。ここにも日本の企業トップのあり方を考え直すヒントがあるのではないだろうか。