この11月1日、初入閣して2か月足らずの荻生田文部科学大臣が、今年度末の大学入試から予定していた外部英語試験の導入を「延期」する、と発表して、大学入試のあり方が大きな問題になっている。

一般には萩生田大臣の「身の丈」発言――都会の裕福な家庭の受験生に有利で、田舎に住んでいる受験生や貧乏な家庭の子に不利な制度だ、という批判に対して、大臣が「身の丈に合った対応をすればいい」と“差別”を認めるような発言をしたことが、マスコミやネットで猛批判を浴びた“失言”事件――が主な原因で、それを取り繕うための「緊急避難」措置だと受け止められているが、この「事件」の背景には、もっと根深い問題があると私は考えている。それは戦後日本の教育政策が「政治主導」と「行政主導」の間で揺れ動いてきて、21世紀に入って、「グローバル化時代の英語教育のあり方」を巡って、「政治主導」色がきわめて濃くなった時に、その行き過ぎから噴出してきた「事件」だと見られるからだ。そこに大学入試における英語の試験のあり方の問題が深く絡んで、問題をさらにこじらせていると思われる。

振り返ってみれば、1970年代以来これまで、教育政策を自民党=首相官邸の「政治主導」で性急に進めていこうとする動きと、「教育は百年の計で、簡単に変えてはいけない」とする文部官僚たちの「行政主導」の慎重な動きとの確執(せめぎ合い)が長く続いていた。それが今回、安倍政権下で「政治主導」で一気に押し切るはずだった動きが、整理すべき荷物を大量に抱え込んだまま、拙速のために準備が間に合わず、事実上、頓挫することが確実になった段階で、安全第一主義の「行政」側がブレーキをかけて「一旦延期」を決めた、と言える。

そもそも大学入試に実用英語技能検定試験(英検)やケンブリッジ英語検定、GTEC、TOEFL、TOEICなど外部の民間試験を導入する案については、今世紀に入って、さまざまな大学改革案が進められる中で、とりわけ経済界から強く出されていた。2000年代前半の小泉内閣時代に文部省キャリアから抜擢された遠山敦子文科相がまとめた「遠山プラン」では大学改革に「民間活力の導入」が説かれた。「遠山プランの」の目玉として、2004年に国立大学が法人化されたのも、民間の経営手法を導入して大学経営を効率化し、研究面でも教育面でも具体的な成果を挙げるように求めたものだった。その時点の大学改革については「官邸」も文科省もあまり齟齬はなかった。大学入試制度については、文科省は「受験生に公平で平等の機会を与える仕組みは変えられない」として民間企業が実施している資格試験や学力測定試験を大学入試に利用することには問題が多い、と言う姿勢を堅持していた。

それが2010年、民主党政権下で内閣に官房長官を議長とする「グローバル人材育成推進会議」が設置され、従来の文部行政に批判的な経済産業省、厚生労働省などの意見を大幅に取り込みながら、官邸主導で教育政策が進められることが明確化した。そこでは産官学の連携・協調体制が唱えられ、経済界からは「グローバル人材=英語が使える日本人」の育成に民間試験を導入せよ、という声が強まっていた。

2012年からの第2次安倍内閣で、この「民間活力の導入」に拍車がかかった。特に経済同友会が「英語入試にTOEFLなどを導入せよ」と提言したのを受けて、安倍内閣が13年6月に「第2期教育振興基本計画」を閣議決定した際には「外部検定試験の活用を目指す」を明記し、文科省としてもそれにしぶしぶ従うことになった。

こうした「官邸主導」の政治的手法の特徴は、期限を決めて「スピード感をもって」それに間に合うように進めるところにある。それに煽られる形で、文科省内では14年に「英語教育のあり方に関する有識者会議」をつくって、そこで官邸の教育再生会議などで民間試験の導入を積極的に説いていた三木谷浩史・楽天社長らを委員に加えて意見を聞き、それを踏まえる形で、同年末には文科省の最高諮問機関である中央教育審議会が「4技能(聞く・読む・話す・書く)を総合的に育成・評価する大学入試制度」を提言することに至った。

中教審の答申(提言)は常に文部官僚が振り付けをして、文部行政の方向に「お墨付き」を与えるもので、この4技能を評価する大学入試のあり方を模索する中で、17年から大学入試センターが「新しい試験のための共通テスト」の試行調査を始めた。ただし、この段階では大学入試センターはもちろん、国立大学の大半が「民間試験の導入」には否定的・批判的であり、文科省も外部試験導入にはあくまで慎重だった。

それが一気に「外部試験の導入を2020年度(21年春)の入試から実施する」と決めたのは、17年春に政府の教育再生実行会議が「これまでの提言の実施状況」の報告書を出して、文部行政の緩慢な動きに事実上のクレームをつけてからだ。文科省や入試センターの慎重な動きを待っていては民間試験の導入はいつまで経っても出来ない、と怒った自民党=官邸が同年夏の予算編成期あたりから18年夏にかけて、文科省に強烈な圧力をかけ、強引に押し切ったと見られる。

当時の文科相は松野博一(16年8月~17年8月)、林芳正(17年8月~18年10月)、柴山昌彦(18年10月~19年9月)と続いているが、松野、柴山、荻生田の3氏はいずれも安倍首相の母体となる細田派(旧安倍・福田派)から安倍首相のお声がかりで初入閣した側近たちで、安倍首相の教育改革を率先して進めようと意気込んでいた。林は岸田派で農林相の経験もある中堅実力者で、文教族ではないが、東大卒、ハーバード大修士号を持ち、文部官僚を押さえる力は十分持っている。こうした政治家たちが舞台裏でどう動いていたかは知る由もないが、永年、教育行政を事実上、左右してきた自民党文教族が財界人と組んで「民間試験の導入」に強引に踏み切らせたことはほぼ間違いないだろう。

そう思っていたら、今月19日にNHKが「下村博文・元文科相が18年4月の自民党内の会合で“東大に民間試験を活用するよう文科省に指導を求めた”と発言した録音テープの存在をスクープした。翌日には本人が発言自体は認めたものの「政治家からの圧力、という報道は当たっていない」と否定し、文科省幹部も東大も「そうした事実はない」としているが、東大がそのころ、それまでの方針を急に変更して「民間試験の利用を認める」ことにしたのは事実であり、その背景にはそうした政治的圧力があったと見る方が自然だ。

ちなみに下村は早稲田大学在学中から学習塾を経営、東京都議(板橋区)から衆議院議員となって2004年に文部政務官、06年に官房副長官を務め、自民党内では安倍総裁の率いる教育再生実行本部の本部長となって安倍を支えてきた文教族の代表格。安倍の信認が厚く、2012年末から15年秋まで3年近く安倍内閣で文科相を務めて、今日でも文科省への影響力はきわめて大きい。

ところが、経済界が特に期待していたTOEIC試験の導入について、実施団体がこの夏、「受験の受け付けから試験会場の確保や運営、試験結果の大学への提供など、実務作業が余りに複雑で対応できない」と参加を取りやめたことが大きな躓(つまづ)きになった。ほぼ同時期に大学入試センターの幹部を含む大学教授たちが8千人を超える署名を添えて国会に「民間試験の利用に反対」の請願をしたのも大きなインパクトになった。

つまり自民党=官邸主導の「民間試験導入」決定に、野党を巻き込む政治運動として「導入反対」が起き、文科省もそれを利用して、「まだ国民の合意が得られない」「準備がとても間に合わない」「時期尚早」とブレーキをかけ、就任間もない荻生田大臣が自分の失言問題もあって、困った挙句「延期」で安倍首相の同意を得た、というのが事実上の内幕だった、と私は読んでいる。

こうした政治主導の歴史的背景と意味については次回に譲り、今回は特に、そもそも大学入試に英語の試験で4技能をテストする必要性=必然性があるのか、という原点に立ち返った問題提起をしておきたい。

私自身は本来、大学入試とは志願者が大学教育を受けるにふさわしい資質・特に学力があるかどうかをチェックするために行うものであり、大学で学ぶのに必要な英語力としてはReading(読む)、Writing(書く)の力を見れば十分であり、Hearing(聞く)、Speaking(話す)力はなくてもほとんど支障がない、と考えている。

ちょっと考えてみれば、すぐにわかることだが、Hearingができなければ大学の授業についていけない、Speakingができなければ大学では全く通用しない、などということが日本の大学で現実にあるのかどうか。あるわけがない。現在、日本の大学780校のうち、すべての授業を英語でやっている大学など、私が設立者の一人である秋田の国際教養大学ほか、まず20校もない。つまり他の750校以上の大学(全ての国公立大学を含めて)に入る学生は、ほとんどの授業(英語も含めて)が日本人の教員による日本語での授業であり、試験の答案もレポートもほとんど日本語で書けばよい。卒業資格に英語力など問われはしない。つまり、日常的に授業でも使わない英語を、それもHearing, Speakingなど課せられる機会もほとんどないのに、どうして大学入試の段階で試験するのか、その理由、根拠がまずわからない。文科省からも、大学入試センターからも、その理由についての説得力のある説明は、少なくとも私は一度も聞いたことも見たこともない。

もし大学入試で全国一斉に英語のReading, WritingだけでなくHearing, Speakingも絶対に必要だ、と言うならば、その前提条件として大学の講義、ゼミなどが全て英語で行われるからだ、ということでなくてはならないはずだ。ところが今日、大学の授業がこれからすべてそうなる、と言う話は聞いたことがないし、そもそもそうなったら現在の大学教員の9割以上は「失格」で職を失うはずだ。つまり「すべての授業は英語で」ということが大学現場で一般的に行わるようになって初めて、受験生にもHearing, Speakingの能力(技能)がなくては大学生にはなれない、と義務付けるべき話だろう。以上のように、今の大学入試改革を典型とする教育行政には、常識的に考えても余りに理不尽、不可解な話が横行しすぎているのではないか。強引に「ゴーサイン」が出た後、唐突に「ストップ」がかかる。何とも無責任な、右往左往の「教育行政」であり、この問題はきわめて根深いので、次回に後編を論じたい。